映画「アフター・ヤン」

 上記の映画を見た。小津安二郎に心酔した韓国系アメリカ人、コゴナダがアレクサンダー・ワインスタインの短編小説「Saying goodbye to yang」を独創的な映像表現で映画化したドラマである。

 人型ロボットが一般家庭にまで普及した近未来の話。茶葉の販売店を営む白人のジェイクと黒人でビジネス界で働く妻のカイラ、中国系の養子の少女ミカ、それに東洋系の外観のテクノと呼ばれる子守り役のロボット・ヤンで構成されている家族。高度のロボットで満点の対応をしてくれるので、ミカは兄の様に慕っている。家族とは何かを象徴しているかのよう。

 冒頭では4人家族揃っての激しい踊りの対抗試合。それはまるでロボットの踊りの様に激しい動きのもので、試合が終わって皆が静かになっても、ロボットのヤンはいつまでも踊りを止めず、故障と分かる。やがて動かないので、買った所へ行って相談するが、新しいものと交換するよう勧められる。

 ところが兄の様に慕っていたミカが落ち込んでしまっているので、あちこちで相談するが、ヤンは治らない。しかし、その過程で、ヤンの体内に毎日数秒間の動画を撮影できる装置が組み込まれていることに気付く。そこには家族に向けられたヤンの温かいまなざしと共に、ヤンが巡り合った謎の若い女性の姿が記録されていた。それらを見るうちに、「人間とは何か。人間と機械の違いはどこにあるのか」とか、「ロボットに恋愛は可能なのか」、「そもそも愛情とは何か」などという主題が浮き彫りになってくるし、記録と記憶の違いなどの問題にも直面する。

 ジェイクがヤンに「幸福か」と尋ねる場面もあり、ヤンは「その感覚が分からない」という場面や、「人間になりたいか」との問いには、「人間らしい質問だな」という返事が返ってくる場面なども出てくる。

 ロボット映画と言っても、劇的な展開があるわけではなく、コゴナダ監督が小津安二郎が好きなだけに、静謐な落ち着いた映像に仕上がり、そこへ素晴らしい音楽が情緒を盛り上げてくれている。

 ただ、人種、血縁、家族、アイデンティティ、愛情、死生観、多数派・少数派、テクノロジー、記録と記憶、プライバシー、文化と歴史、教育など多様なテーマを絡め取りながら転がってゆくので、批評家の言説にもあるように「表現したいものが思うように表現出来ていないと思わせる箇所がある」のも確かである。しかし、ゆったりとしたストーリーに進んで身を任せれば、『アフター・ヤン』は豊饒なものを提供してくれる作品と言えるであろう。