陰翳礼讃

 昔読んだ谷崎潤一郎の「陰翳礼讃」に描かれていた、昔の日本家屋の座敷などの静謐とも言えるイメージが忘れられず、持っている文学全集の谷崎潤一郎の本を引っ張り出してみたが載っていない。文庫本の古本を手に入れて読み返してみた。

 戦前の、私の親世代ぐらいまでの日本人の生活のなかに染み込んでいた美意識。戦前、私が未だ子供の頃の我々の世代も、その名残りを味合わせて貰ったあの和式の生活様式、その美学。それらは戦争による焼け野が原や、戦後の生活の欧米化の歴史を経て、すっかり変えられてしまったが、それ以前の日本の日常生活のほんのりとした懐かしい思い出を谷崎文学でもう一度味合えないものかと思ったのであった。

 昔の民家の座敷の少し薄暗い穏やかな雰囲気、深い軒下の障子を通して入ってきた柔かく拡散した光、鈍い反射、穏やかな影。わび、さびにも通じる、あの心を落ち着かせてくれるような雰囲気は今の都会生活ではもう味合うことの出来ない過去のものとなってしまった。

 もう今では深い庇も、縁側も障子も失われてしまい、広い開口部のない閉ざされた部屋の中は、明るい照明で照らされた昼間のような空間か、そうでなければ外界から閉ざされた暗黒の空間かで、最早そうっと人を包んでくれる、あの柔らかい仄暗さというものは見られなくなってしまった。

 煌々とした蛍光灯やLDL電球に照らされた室内は仕事をするのには向いているが、昔のような心の落ち着きは与えてくれない。ましてや障子越しに入った柔らかな光、それに照らされた襖や床間の陰影、仄暗い中に置かれた置物、その表面の金や銀、瑪瑙などの微かな輝きなど、谷崎の文章はそういった昔懐かしい日本の伝統の名残を再現して楽しませてくれる。

 ただし、谷崎はそういう陰翳礼讃の世界へ想いを致す場蹴りに、日本の近代化の産物である電灯や電話、電気ストーブ、スチーム、それにタイルや白壁など使用などいった異物の混入を嫌がったが、流石に母屋から離れた厠などの寒さについては「風流は寒きものなり」と痩せ我慢を張らざるを得なかったようである。

 陰翳礼讃の世界は最早過去へのノスタルジアであり、現実には冷暖房付きの居間に給湯設備、その他の家電器具類などなしでは現在の生活は成り立たない。もう今では昔のような夏向きの開口部の広い縁側のあるような建物も少なくなってしまった。広い庭に面する家も少なくなったし、マンションのような立体的な住居さえ普通に生活の中に入り込んでしまっている。

 今更も元へは戻れない。しかし、受け継いできた陰翳礼讃の歴史は現代の生活の中でも、もう少し考慮されても良いのではなかろうか。日本では家庭でも蛍光灯やLD電球で部屋の隅々まで明るく照らすが、ヨーロッパなどでは蛍光灯は工場や職場の仕事用にしか使われない。普通の家庭では局所の照明が主である。

 今では、米国やヨーロッパの家庭の方が陰翳礼讃に近く、日本の部屋の方が影の深みを失ってしまっているような気さえする。もう少し陰影も取り入れて、深みのある空間にすることが、生活に深みをつけることにも繋がるのではなかろうか。