どじょうはどうやって切るの?

 いつだったか老人性難聴について書いたことがあるが、老人になって耳も目も悪くなると、不便なこともあるが、そのために思いもよらない面白い経験もさせて貰えることもあるものである。

 先には、「出前館」というテレビのコマーシャルが「狭いから、狭いから」と聞こえて、何が狭いのか奇妙に思ったことを書いたが、今度はまた違った興味深い目にあった。

 うちで女房と娘と三人で夕飯を食べていた。何か魚料理であったような気がする。リビング・ダイニングになった少し離れたリビングに置かれたテレビでは大相撲の中継が行われていた。見るとはなしに見ながら、色々お喋りしながら食事をしていた時のことである。

 娘が九州場所の話などもしていたが、ちょうど魚を食べている時に、「どじょうってどうやって切るの」というので、何を急に言い出すのかと思ったが、ヌルヌルした細長いどじょうの印象から、うなぎが連想され、いい加減な返事をした。

 「きっと頭に釘を打ち込んで、動けないようにしてから切るんじゃない」と言ったら、娘が急に黙り込んでびっくりした顔をするので、こちらが驚かされたが、やがて分かったことは娘の質問は「どじょう」ではなくて、相撲の「土俵」はどうやって作るのかということであった。

 九州場所などは、常設の相撲場ではなく国際センターというアリーナのような所で行われるので、場所があるごとに土俵を作らねばならないであろうから、あんなに大勢の大きな力士たちが暴れ回る土俵をいちいちどうやった作るのだろうかという疑問であった。「土俵」が「どじょう」に聞こえたので、それに連動して「作る」が「切る」に聞こえたもののようである。

 それに、女房が「どじょうのような小さなものを切ることはないでしょう」と言ったが、まさにその通りであろう。皆で大笑いしたものであった。

 次いで、その翌日のことであった。住んでいる池田市の広報誌が届いたので、ページをめくってみた。突端に、いくつかトピックスのような見出しが書かれているのが目に飛び込んできた。そこには「誰もが英語で暮らせるように」と書かれているではないか。一瞬驚かされた。本当か?なんぼなんぼでもそんなの無理じゃないか?あるいは外国人を対象にした記事なのだろうか?

 不思議に思って、老眼鏡をかけてよくよく見直してみると。「誰もが笑顔で暮らせるように」という見出しであった。記事の中身であれば、初めから老眼鏡をかけて読むところだが、ページをめくって先ず目につく見出しは少し大きな字で書かれているので、裸眼でそのまま見ることになる。そうなると「英」と「笑」は似ているし、「語」と「顔」もそこそこ似ている。目に映った文字の映像を脳は咄嗟の印象から判断して読もうとするので、こういう間違いも起こり易いのであろう。

 若い時なら、仕事上での聞き間違い。見間違いで、とんだ災難に出くわしたかも知れないであろうが、家でくつろぐ老人にとっては、「どじょう」にしても、「英語」にしても、悪くなった耳や目が、面白い早とちりをして楽しませてくれるようである。