寒い冬が去り、漸くコロナからも幾分解放された気分になっているところに春がやって来て、こちらもあちらも桜が満開となり、花見客で賑わっている。川の堤や公園に何十本も並んだ満開の桜はいつ見ても美しく、春の希望を託してくれているるようである。
今年も近くの猪名川縁や、五月山の桜を見に行ったが、コロナのために制限された花祭りで、満開の桜の下での過去の盛んだった宴会の場面などを思い出しているうちに、ふと、折角忘れかけていたもっと昔の桜の光景が蘇ってきた。
戦後長い間、桜を見ると軍隊を思い出し、戦時中の記憶が蘇って来て嫌な気持ちにさせられていたものであった。桜並木を見ると、隊伍を組んだ兵隊の足音が聞こえるような気がしたり、折角の花見の宴で飲んでいても、幕の背後からいきなり兵士や傷痍軍人の亡霊が姿を表すような幻影に囚われたりして酔いが覚めたりしたものであった。
満開の桜が散り始め、桜吹雪となり、疏水の水面が花筏に覆われている場面に出くわした時も、美しいと思いながらも無残な敗戦、死んでいった特攻隊員の哀れが重なって楽しむわけにはいかなかったこともあった。
私だけでなく施設に入居している姉を車椅子に乗せて桜見物に出かけた時に、姉も桜を見ると兵隊さんがあちことから出て来て・・・と昔の話をし始めたものであった。戦争の傷跡は長らく残り、長年、私にとって桜見物は美しくもあり、悲しくもある複雑な気持ちが続いてきたものであった。
それでも戦後77年経った近年には、いつしかそれがようやく消えかけて来ていたのに、また嫌な過去の記憶が戻ってきたのだった。
花宴(はなうたげ)やっと消えたる兵の影
我々戦争時代の人間にとっては、桜と軍隊は切っても切れない関係にあったのである。パッと咲いてパッと散る桜は武士道に結び付けられ、桜は日本の象徴とされ、軍国主義の日本では、軍隊と深い関係を持たされていたのである。その名残で今も自衛隊の徽章に桜が用いられているのではなかろうか。
殆どの兵営の垣根は桜に囲まれていたし、学校の校庭や神社の参道にも、どこにも桜並木が並んでいたが、どこへ行っても軍人が威張っていた。馬に乗るわけでもないのに拍車のついた長靴を履き、左腰には日本刀を、右には革の小鞄をぶら下げて、人垣をかき分けて闊歩していた将校達の姿を今もも忘れられない。
小学校の国語の教科書はサイタサイタサクラガサイタで始まり、コイコイシロコイを挟んで次がススメススメヘイタイススメであり、日中戦争が始まると、満開の桜並木の駅のホームに整列して、日の丸の小旗を振って出征兵士を見送ったものであった。中学校の時には校庭の桜の下で軍事教練が行われたし、海軍兵学校に入学した晴れの日の江田島の桜も真っ盛りであった。
戦争末期になって本土の空襲が広がり、転進、玉砕が続き、勤労動員、特攻隊や挺身隊、一億火の玉、鬼畜米英、最後の決戦などと言われるようになるとともに、天佑神助や神風などが叫ばれ、桜や武士道がますます強調されるようになっていった。
戦争が厳しくなると、七つボタンの予科練の歌や、「同期の桜」が流行り、「貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く。同じ花なら散るのは覚悟、共に笑って散りましょう」などと歌われた。一億総動員で益々幅を効かせていった軍人と桜は強く結びついていた。
そんな戦時中の思い出から戦争が終わってからも、桜と戦争、桜と兵隊は強く結びついたままで、いつしか戦争の嫌な思い出と結びついて続いてきたのであった。桜の花こそ迷惑だったのであろうが、最近になって初めて素直に褒め楽しむことが出来るようになったのに、ひょっこり昔の記憶が蘇ってくるのはどうにも仕方がない。
死ぬまで心のどこかに桜と戦争が結びついて残ったままなのであろうか。