今年は新型コロナ(COVID19)の影響で花見もままならなくなっているが、それでも桜の花を見なければ春になった気がしない。日本国中何処へ行っても桜の名所があり、人々が集まる。大昔は春の花といえば梅であったらしいが、今では、この国で単に花といえば桜を意味することが多い。今年も何回か悪い足を引きずって、近くの桜見物に出かけた。
しかし、実は私は長い間、桜を見るのが怖かったのである。誘われて花見の宴に行って、飲んでいても、何故か、突然幕の裏から痩せ衰えた敗残兵がヌッと顔を出すのではないかという幻想に取り憑かれることがあった。私にとっては、旧大日本帝国と戦争の象徴がまさに桜であったので、戦後にこれらを否定して生き直すには、必然的に桜も否定されることになったのであろう。
桜を見ると戦争やその時代を思い出して怖かったのである。自然に桜とは距離を置いて来たようである。そういう無意識の結びつきが薄れて、幻想に取りつかれずに、再び桜の花が見えるようになったのは、もうずっと歳を取ってからのことである。
思えば、大日本帝国や、あの戦争と桜とは切っても切れない関係にあった。軍国主義の日本で叫ばれた大和魂は武士道の象徴とされ、「花は桜木、人は武士」などと言って、武士すなわち軍隊と桜は何かにつけて結び付けられていた。帝国の小学校で最初に習うのも「サイタサイタサクラガサイタ」であり、校庭の周りにも練兵場の周囲にも桜が咲き、神社への道にも、堤の上にも、桜並木が続いていた。吉野のように桜の名所も多かったし、何処のお城にも桜がつきものであった。
桜並木の途中から「万朶の桜と襟の色、花は吉野の嵐吹く、大和男と生まれなば、散兵戦の花と散れ」と歌いながら隊列を組んで、ザクザクと軍靴の音を鳴らして兵隊たちが現れ、やがて「歩調とれ」とか、「右向け右」「捧げ銃」などといった号令が聞こえてくるのが、国中何処ででも見られる日常の姿であった。
陸軍だけではない。戦争末期に過ごした海軍兵学校も桜並木に囲まれていたが、そこでも「貴様と俺とは同期の桜、同じ兵学校の庭に咲く、咲いた花なら散るのは覚悟、見事散りましょ国のため」と歌ったものであった。
戦争中に一世を風靡し、幼い子供達まで口ずさんでいた予科練の歌でも「若い血潮の 予科練の七つボタンは 桜に錨、今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃでっかい希望の 雲が湧く」と歌われていた。
桜にはこういう悲劇の歴史がついて回るのである。桜が悪いのではない、それを利用した人間が悪かったのである。桜は本来は女性的な優しい花である。桜を指す花言葉は「優美な女性」と「精神の美」とも言われるとか。江戸時代には吉原の象徴とされたこともあるようである。今でも、薄いピンクの花と淡い春の青空のコンビは如何にも優しい春の到来を告げてくれるものであり、一陣の風に吹かれて散る花吹雪も、川に漂う花筏の風情も捨て難いものがある。
ただし、花として鑑賞するなら、私はソメイヨシノよりも八重桜や枝垂れ桜、あるいは早咲きの河津桜の方が好きである。花の色が多少濃いので青空とのコントラストもはっきりしているし、個々の花も綺麗だし、少し長持ちがするからであろうか。
日本におけるソメイヨシノの流行は、明治の初め頃から、在郷軍人たちがあちこちの城跡などに植え出したのが初めとか言われている。それから急速にシェアを拡げ、国の代表的な桜の品種となったということらしい。初めからその優しさ、儚さにつけ込まれて、「武士道とは死ぬことと見つけたり」などと、誤った軍国主義に取り込まれていってしまった悲劇の品種であったとも言えるかも知れない。
最近はソメイヨシノの衰えが言われたりしているようだが、花見の桜にも長い秘められた歴史のあることにもしばし気を止めて欲しいものである。