戦地の話

 私の年代は敗戦の時17歳だったので、志願して少年兵になった者や、沖縄で戦闘に巻き込まれた者などを除いては、実際の戦争は経験していない。しかし、すぐ上の年代の者までは実戦に駆り出されたので、好むと好まざるに関わらず、先輩たちから戦地の話を嫌という程、聞かされたものであった。

 色々な先輩から色々な話を聞かされたが、大きく分けると三つの話手に分けられる。一つは、まだアメリカとの戦争が始まる以前、我々が小学校の頃に中国戦線から帰って来た兵士たちの自慢話であった。

 その頃は日本が中国へ侵略して行っていた頃で、まだ勝ち戦だった。帰還した兵隊たちは、我こそはと言わんばかりに、誰彼れ構わずに、自慢話を周囲の人に喋りまくっていた。

 当時の日本軍は野砲などを馬に引かせて、大部分の歩兵は鉄砲を担いで隊伍を組んで行軍するといった旧式な軍隊だったが、装備も訓練もそれに劣る未熟な中国軍や普通の農民のような者が相手だったから、全戦全勝のような勢いで軍を進められたような時代であった。

 当時の日本軍は「現地調達」を基本として戦争をしていたので、攻め込んだ所で、自軍の食料その他必要品を調達するようなことが多かったので、何処かを占領すれば、そこで必要な物資を略奪するのが普通であった。

 軍隊は若い荒くれ男ばかりの暴力団のようなものだから、当然、略奪や乱暴狼藉、婦女暴行などは日常茶飯事であったのであろう。

 こうした非日常的な経験をして来た帰還兵たちは、故郷へ帰って、気分も楽になり、周囲からも歓迎されるので、その珍しい経験を人に話さないではおれなかったのであろう。子供達がいても平気で、色々な自慢話を聞かせてくれたものである。

 話の内容はもう忘れてしまったが、その時に覚えた「クーニャン・ライライ」というのが私の知った最初の中国語となったことを思えば、話の内容も想像される。今から思えば残虐な話も平気でしていたようだった。

 それから何年か経って、戦後になり、医者になると、先輩には兵隊帰りの医師が何人もいた。彼らも戦争で色々な体験をして来たので、自分にとって忘れ難い戦地での貴重な体験は、やはり人に話したくなるもののようである。

 戦後のことで、こちらはもう戦争の話などうんざりで、少しでも、そこから遠ざかりたいのに、そんなことはお構いなしに、自分の戦争体験を押し付けがましく、話すの人が多かった。多くは自慢話であったが、負け戦の話でも、軍医としての経験が多かったので、本当に生死を分つような過酷な経験ではなかったので、過去の非日常的な体験となれば、懐かしいような気がしてならなかったのではなかろうか。

 しかし同じ戦争を経験した医師の先輩の中にも、これらの先輩とは全く違った何人かの人達がいたことも忘れられない。この人たちは決して自分の経験を語ろうとはせず、聞かれても言を左右して、沈黙を守る人達であった。

 一番顕著だったのは、シベリア抑留から帰った人達であった。恐らく、言語に絶する過酷な経験をしてこられたのであろう。シベリア帰り以外の人の中にも、戦時中の体験として、命令によって人を殺さねばならなかった人や、味方の全滅の中で、一人だけ生き残った人など、あまりにも過酷な目にあった人達も、決して話そうとはしなかった。罪の意識に責め苛まれている人達は、決して人には話さず、死ぬまで秘密を守ったようである。

 同じ戦争から帰って来た人達の間でも、喋らねばおれなかった人達と、あくまでも沈黙を守った人達の、あまりにも対照的に違った態度が今もなお忘れがたく残っている。