隣人との共存

 今朝の朝日新聞の文化・文芸欄にルーテル世界連盟のムニブ・ユナン前議長に聞いた話が載っていた。パレスチナ人でプロテスタントルーテル教会の世界連盟の議長を長く務めた人で、ルーターによる宗教改革以来500年にわたるカトリックとの対立を、50年かけて話し合い、ローマ法王とともに「悔い改め、共に進む」とする署名を成し遂げた人である。

 イスラエルパレスチナ双方の衝突の中でも、忍耐に忍耐を重ね、民衆レベルでの互いの理解を進める努力をされてこられた中での発言として「「私たちはいま、『隣人愛の危機』に直面しています。隣人を愛するとは情緒的なことではなく、自分とは異なる人たちの多様性を知り、その痛みを理解することです」とある。

 多様な隣人を理解することを解き、「私はユートピア的な解決を語っているわけではなく、現実的な解決を求めているのです。私たちは自分が望むような隣人と暮らすわけではない。あるがままの隣人と共に生きなければならないのです」という言葉は今の日本にも通じるものであろう。

  対立や偏見はこの国でも普遍的な問題です。日本でも、SNSなどには気持ちの悪くなるような嫌韓、嫌中の言葉が溢れているし、ヘイトスピーチをはじめ排外主義的なデモなどもしばしば見られる。自分と違う人を認めない言葉を吐くことに快楽を感じる「過激主義」が横行しているようである。

 日本は単一民族だという主張する人が未だに少なくないが、もともとこの島国に住む人は、かって大陸や半島から渡ってきた多様な人たちで、縄文人弥生人も異なっていたわけで、アイヌや沖縄などの人たちも大和人とは違っていて当然である。

 最近では、明治以来の政治情勢などで朝鮮半島からの移民も多く、さらには戦後、ことに最近は多くのアジアの人たちを中心とした移民も次第に多くなり、日本民族といっても次第に多様性を増してきているのである。

 その人の歴史的背景や育ちが違えば文化も違うし、日常の習慣や考え方にも違いがあるのは当然であろう。自分たちのこれまでの生活史や習慣だけから全てを律するのではなく、違った人の違った考えや習慣をも理解し、許容する寛容さが必要であろう。

 いつも自分の気に入った人が隣人とは限らないことを知り、あるがままの隣人と共に生きることを学び、喜びを感じるようになる努力もすべきであろう。違った価値観が交流することによってより優れた価値観が生まれるのではなかろうか。