多様化の時代

 歳をとって適当に体を動かさねばと思うが、コロナも怖い時代である。出来るだけ人の混み合った商店街や駅の周辺を避けて、人通りの少ない道を選んで散歩するようにしている。幸い、池田には猪名川が流れており、五月山もあり、散策出来る道には事欠かない。もっぱら、まだ人の少ない時間帯を狙って、あちこち散歩している。

 川辺りの遊歩道などを行くことが多いが、老人なので歩みが遅く、所々で休憩して、多くは1〜2時間ばかりで帰って来る。昔は他人に負けないように、さっさと歩いていたものだが、今は杖をついて、ゆっくりしか歩けない。後ろから来る人にどんどん抜かされていく。それでも、ゆっくり歩けば、急いで歩いていた頃には気が付かなかった、道端の草花や小鳥に目がいって、結構楽しいものである。

 早朝に出かけても、最近は老人が多くなったことや、コロナで遠出の出来ない人たちが近くを利用するためか、殊に週末などは、出会う人も少なくない。早起きで時間を持て余している老人や、犬の散歩、マラソンにでも出る積もりなのか、ラニングしている人も多い。堤防の上の道が空港の方まで続いているので、サイクリングで颯爽と風を切って走っていく人たちも後を絶たない。それに週末ともなれば、河川敷に作られたいくつもの競技場は、野球やサッカーの選手や家族で賑わっている。

 競技もそうだが、道端のベンチで休みながら、通り行く人たちを観察しているだけでも面白い。この頃のサイクリングの人は、一人残らず、サイクリング専用の車に乗り、サイクリング専用の衣装やヘルメットで身を固めている。ジョギングで走っている人は走っている人で、これまた、残らず、ゼッケンでもつければオリンピックにでも出れそうな、ラニング専用の格好をしている。いまでは普通の格好などでサイクリングをしたり、ジョギングをしてはいけないような雰囲気さえある。

 犬の散歩をしている人や、夫婦や一人でウオーキングをしている人たちも、昔と違って、ずいぶん色々な服装をしている。特に春の朝だと、日により寒暖の差の大きいこともあって、もう半袖の人がいるかと思えば まだ冬のコートを羽織って歩いている人もいる。長袖のシャツ、チョッキや上着を着ている者など色々。下もズボン姿も短パンの人もいる。地味な格好の人の間に、派手な格好の人もいる。この間は三色の派手なパンツの男性が通って行った。

 昔、初めてアメリカへ行った時に、最初に着いたサンフランシスコの街の風景を思い出した。今と違って、日米の生活環境の違いはずっと大きかったが、兎に角驚かされたのは、日本では想像もつかない、道行く人たちの外観の多様さであった。人種の坩堝だとは聞いていたが、先ずは服装などの外見の多様性に驚かされた。丁度5月の初めであったが、道行く人を見ていると、毛皮のコートを着た女性のすぐ横を、まるで海辺のようなビキニに近い格好の人が歩いて行くではないか。

 こんなことは日本では考えられないことであった。その上、漫画のために強調された人物像のように、極端な肥満と痩せ、背の高低のコントラストが現実の世界だし、肌の色も色々で、同じ街に住んでいる同じ人間なのに、こんなに大きなばらつきがあるのかと、ある種の衝撃を受けたものであった、

 もうそれから60年以上も経つが、身の回りの日本も、外観だけでも昔と違い、背の高い人が増えたし、でっぷり太った人も増えた。おそまきながら似たような多様性がひしひしと押し寄せてきているのを感じないわけにはいかない。もう昔とは違った日本人ばかりである。

 それも外観だけではない、人々の嗜好や生活、仕事や行動様式などまで、昔では考えられないぐらい多様になってしまっている。少子高齢化だけでなく、在住外国人も多くなっている。外国で長く暮らした人も多くなり、日本人の生活様式も変わり、物の見方や考え方も人によって多様化してしまっている。

 私はこれこそ良い徴候だと思っているが、こんな中で、一部の人が言うように単一民族だとか、万世一系、一億一心などと言っても、最早時代遅れで先の希望はないであろう。多様性こそ人類発展の基礎であると思っている。