身勝手な人種差別

 8月1日の朝日新聞の声欄に、和歌山の方の『「品格」問う横審に物申す』とした投書が載っていた。名古屋場所で全勝優勝した横綱白鵬の取口が、品格に欠けるとして問題になり、八角理事長が白鵬を呼び出して注意したというが、全く納得がいかないという趣旨であった。私もこの投書者と同じ意見である。

 いかに稀に見る名横綱とはいえ、歳を取り、膝の故障を抱え、6場所も連続休場の後では、相撲の感も鈍っていたであろうし、勝つためにはあらゆる努力をし、実際に全勝優勝したのであるから、賞賛してもケチをつけるべきではない。

 張り手やかち上げがよくないというが、それらは禁じ手ではない。横綱にあるまじき相撲だと言っても、ルールは全ての競技者に平等なはずである。横綱で張り手が持ち味であった横綱前田山の前例もあるそうである。

 横綱には横綱としての品格が必要だと良く言われるが、競技であれば、先ずはルールを守って勝負し、勝つことである。それ以上の日本人にしか通用しない「横綱相撲」を期待する方が間違っている。

 神事と競技と興行の融合した「相撲道」は日本人にしか通用しない。ハワイ勢の外国人力士を導入した時から、競技としての相撲に純化すべきであったのである。神事や興行の面を維持しても良いが、あくまでそれらは付随的なもので、相撲は競技に徹しなければ、相撲の将来はないであろう。柔道の歴史が参考になるであろう。

 そういう微妙な相撲の世界で、日本勢が振るわず、モンゴル勢なしには立ち行かない中で、モンゴル力士たちは、ある時は日本相撲の救世主として讃えられながらも、ある時には日本の伝統から外れると非難されがちであるが、人種が違えば文化も習慣も違うのは当然、無理矢理日本のしきたりを強要する所に差別が顔を出すのである。スポーツとしての相撲に徹して、もっと広い心で彼らを遇すべきであろう。

 その中で、白鵬が時に色々な差別的圧力を受けながらも、如何に日本の相撲に同化するべく努力してきたか、それこそ称賛に値すべきもので、日本の相撲界は白鵬を救世主として賞賛し、そこから学ぶべきものを吸収しなければならないのではなかろうか。

 またテニスの大坂なおみについても、似たようなことが言えるのではなかろうか。華々しく優勝を飾った時には、日本人として賞賛され、今回の東京オリンピックの開会式でも、JOCは日本の多様性尊重のシンボルとして利用しておきながら、競技で金を取れなかった途端に、多くの日本人から、「国籍は日本だが普通の日本人ではない」といった中傷が広がったようである。

 都合の良い時は、外国の血が流れていても、日本人だと自慢の種にし、具合の悪い時には、日本人のカテゴリーから外して、仲間外れにするという身勝手な人種差別が今も広く見られるのが日本の社会の現状である。

 しかも、西欧文化を追う日本社会では、西欧系の混血は崇め、アジアやアフリカ系の混血は見下す風潮まで伴っているのである。大坂なおみがうつで苦しむ内容は定かでないが、そのようなことも関係しているのではなかろうかと思えてならない。

 最近は日本でも多様性尊重が言われるので、表面的には人種差別や性差別などに理解を示す風潮が強くなって来ているが、多様性をめぐる偏見は今なお陰にこもって深く根付いてしまっていることこそ重要で、長い目で根気よく打ち砕いて行かねばならないものであることを認識すべきである。