戦場の記憶

 日本の敗戦時、私は海軍にいたといっても、まだ海軍兵学校の生徒だったったので、実際の戦地や戦場の経験は全くないので、実際の戦地の様子がどのようなものであったかについてはは全くわからない。

 しかし、戦後、医者になって、大学の医局にいた頃には、戦争帰りの医者の先輩たちが大勢いたので、中国やフィリピンその他の戦地での出来事をたくさん聞かされたものであった。

 皆軍医だったので、最前線で戦うというより、一歩後方で仕事をすることが多かったであろうから、一般兵士と異なり、相対的に多少とも安全でゆとりのある中での経験だったであろうから、余計に話したかったのだったかも知れない。

 誰にとっても戦地での出来事は全く厳しい非日常的なことだったので、自分の中に静かに押し込めて置けるようなものではなく、誰かに聞いて貰って発散させねば落ち着かないようなものである。従って機会があるごとに誰や彼やから嫌という程、色々な戦争の話を聞かされたものであった。

 こちらは折角戦争を否定し、そこから逃れようとさえしていたのに、これでもか、これでもかと言わんばかりに、自慢話や恐ろしかった話などを聞かされて、些か迷惑でさえあった。

 ところが、大勢の軍医帰りの中にも、ある一定の人たちは全く戦争のことや自分の経験を話そうとしない人たちがいることの気がついた。一番はっきりしていたのは、シベリア帰りの人たちであった。シベリアでの生活が如何に過酷なものであったかを想像させたものであった。色々な話や、画家の香月氏の絵からもシベリア生活が如何に凄惨なものであったかが分かる。

 シベリア帰りでなくとも、戦場におけるあまりにも無惨で過酷な経験をした人たちは話さなければならないと思いながらも、絶対に話せないと心の底に無理やり押し込んみ遂に黙したまま死んでいったのではなかろうか。 例えば、中国戦線で上官の命令によって中国人を殺した人や、更に残酷な現場を経験した人たちは、それこそその秘密を死ぬまで話せなかったのではなかろうか。

 よく戦争から帰ってから全く人が変わったように寡黙になったとか、乱暴になったとかいう話を聞かされたものであったが、今でいうPTSDであったり、ショックから立ち直れなかった人々も多かったことであろう。

 戦争だけは絶対にすべきではない。