東日本大震災の10周年ということで、このところ毎日、テレビでも新聞でも、この災害に関連した記事で埋まっている感じである。
思い返してみると、この日本はずっと大災害の連続で、地震も多いが、それより多いのが風水害、その上なくても良いのに、まさに人為的な戦争被害まで加わったのだから、「災害は忘れた頃にやってくる」どころか、忘れる間もなくやってくる感じである。我々は災害の中を生きて来たようなものである。
私の子供の頃は、関東大震災の話をよく聞かされたものであった。 関東大震災が1923年 9月1日だから、10年目と言えば1933年(昭和8年)私が5歳になっていたので、「関東大震災、関東大震災」と周囲の人たちから、いろいろな話を聞かされたのを覚えている。
人々は丁度、今の東日本大震災に対するような感じだったのであろう。両国の被服廠後の広場に大勢の人が逃げて来たところに火の手が回って、多くの人が焼死したとか、浅草の十二階が倒壊したとか、築地の本願寺で供養があったのであろうか、その名前などもよく聞かされた。
ただ、今と違って、テレビもラジオもない時代だったので、人々はいろいろな流言蜚語に振り回されたようである。 朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだと言う噂が広がり、自警団の人があちこちで通行人の検問をして、「五十銭」などと濁音の言葉を言わせ、出来な者は朝鮮人だとして撲殺したという話も聞いた。日本人なのに、発音が悪かったばかりに殺された少年もいたそうである。
また、1938年に我が家は東京に転居したが、その際、列車が丹那トンネルを出ると、車窓からの景色が変わり、そこから先は、もうそれまで見慣れた瓦屋根のどっしりとした家の集落などがなくなり、軽量の家ばかりになるのを見て、震災の為だと説明されたものであった。
関東大震災については、殆どが他人から聞かされた話だったが、私が初めて出会った大災害は 1934年(昭和9年)の室戸台風であった。私が幼稚園の時で、もちろん子供だったので家にいたが、台風の様子を恐る恐る窓から見ていると、ピューという強風が来たと思ったら、我が家の塀が、まるで紙が捲られるように、抉られて外へ飛ばされ、向いの家の大きな庭木が倒れて、どさりと家の門を潰すのをまざまざと見たことを覚えている。
翌年、近くの建石小学校へ入学した時に、校舎の白壁にここまで高潮が来たという印があって、それが自分の背丈よりも高い所に引かれているのを見てびっくりしたものであった。当時の小学校は木造建てが多く、この台風で多くの学校が倒壊して、多数の児童が犠牲になったが、後になって、子供達を守って亡くなられた先生たちを表彰して、大阪城の角に教育の塔という碑が建てられ、長い間この台風の象徴とされていた。
その次が1938年(昭和13)の夏の阪神大水害。この時は3日も続いた豪雨のために当時まだ禿山であった六甲山と、そこから流れ落ちる天井川が災いして、山が崩れ、芦屋川、住吉川、石屋川などが軒並み決壊して、阪神間から神戸までが広範囲に浸水するという、阪神淡路大震災に次ぐ大惨事となった。何百人もの死者、万を超える家屋の損失、橋の流失などが見られたようである。長靴を履いて西宮あたりに見に行ったことを覚えている、
当時すでに支那事変(日中戦争)は始まっていたが、その後はずっと戦争が続く。「東洋平和のためならば」と歌って出征兵士を送り出し、南京陥落旗行列、武漢三鎮占領、重慶渡洋爆撃、ノモンハン事件、仏印進駐、紀元2600 年記念行事などを経て、1941年12月8日にはアジア太平洋戦争(大東亜戦争)の開戦ということになり、詳細は触れないが、ついには1945年3月13日夜の大阪大空襲ということになった。
空襲体験については別に書いているのでそちらに譲るが、今でも忘れられないのは、見渡す限りの空全体から火が降って来るのである。広大な空が花火で埋まっているようなものである。やがて、それらが落ちてきて、周りが燃え出し、火の海となり、逃げ惑った記憶は死ぬまで消えない。朝になれば、周りの景色は一転して、何もなくなり、見渡す限りの焼け野原になってしまっていた。あまりの変わりように、言いようもない恐ろしさというより、人々を絶望から虚脱状態に陥れるものであった。
戦争については、その後も、連合艦隊壊滅の呉の大空襲や、広島の原子爆弾も経験したが、ここでは触れない。ただピカ・ドンとそれに続く原子雲、焼け跡の燐の匂いは決して忘れられない。
戦後になって最初の災害は1950年のジェーン台風で、我が家には直接被害はなかったが、三軒先の家の子供の通信簿が我が家まで飛んできたことを覚えている。次いでは、1961年の第二室戸台風では、大阪の被害が大きく、中之島あたりまで浸水し大変だったようだが、私は当時アメリカにいたので知らない。
その後も台風は何年かおきぐらいには、繰り返し襲来して被害を及ぼしてきたが、あまり多いし、自分が直接その被害を強く受けていないので、いちいち覚えてはいられない。最近では広島の山崩れや、岡山の河川氾濫、それに関空が水没し、タンカーの衝突で橋が不通になり、何千人だかが閉じ込められた台風などが記憶に新しい。
台風でも室戸台風のように甚大な被害を起こすものもあるが、台風より恐ろしいのは地震である。昔から「地震、雷、火事、おやじ」と筆頭に挙げられてきた所以であろう。
地震については、1944年に東南海地震、1946年には南海地震と立て続けに巨大地震があったが、前者は戦争末期の混乱期で被害が秘匿され、記憶に乏しいし、後者の時もまだ戦後の混乱期で、名古屋に住んでいて直接被害に遭わなかったので殆ど記憶がない。
幸い、それ以来大きな地震はなく、東京ではよく地震があるが、関西では地震があまりないからと安心していたものだったが、そこへ青天の霹靂の如くにやった来たのが阪神淡路大震災であった。1995年の1月17日午前5時46分のことであった。
この時は丁度、朝食を済ませ、まだ食卓にいるところであった、突然強い揺れで、キチンの食器棚の扉が観音開きに開き、皿やコップ、グラスなど中の物が次々が雪崩を打って落下したが、キチンのカウンターに遮られて近づけず、ただあれよあれよと見ているだけであった。書庫に使っていた部屋は書棚が倒れ、落ちた本が積み重なり、当分、入ることさえ出来なかった。
女房が「雨が降っている」というので外に出てみると、温水器の水道管が外れて、水が流れ出していたが、元栓が何処か分からず、暗い中をあちこち探さなければならなかった。池田の古い店の倒壊したことが早く新聞に載ったので、北海道の古い友人が心配して見舞金を送ってくれたこともあった。
それでも、我が家は大丈夫だったが、少し落ち着いてから近くの様子を見ると大変だった。川西の先ではビルが倒壊しているし、伊丹の阪急の駅は潰れている。芦屋から神戸にかけては見るも無惨な光景であった。高速道路が横倒しになり、阪神電車の車庫が潰れ、三宮のアーケードは落ちてしまっていた。火災も起って、あちこちが焼失し、被害は甚大なものであった。
地震の歴史を見ると、活動期と平穏期が分けられるそうで、1960年から1994年までは平穏期だったが、その後また活動期がやって来たのだという。その現れが阪神淡路大震災であり、2011年の東日本大震災なのであろう。当然活動期はまだ続いていくであろうから、遠からずまた大きな地震が来る可能性が高いそうである。先日、またかなり強い地震が東北であったのもその現れであろうか。いつまた突然、巨大な地震が来ても不思議でないと言われている。
少し長くなり過ぎたので、東日本大震災については省略するが、「災害大国」の日本に住んでいる限り、災害は忘れた頃どころか「災害は忘れる前にやって来くる」と覚悟しておかねばならないようである。私にとっては、もう残り少ない人生である。せめて私の生きている間ぐらいは、何とか天災には遠慮して貰いたいものであるが、どうなることやら、運を天に任せるよりないであろう。