映画「悪は存在しない」Evil Does Not Exist

 カンヌ、ベネチア、ベルリンと全てで賞を獲得した濱口竜介監督の最新作であるというのでこの映画を見に行ってきた。

 この映画はこの監督が前作のドライブ・マイ・カーで組んだ音楽家石橋英子の依頼で、ライブパーフォーマンス用の映像を作ろうとしたのが始まりらしく、映画のイントロで林の木々を下から眺めた動画が長く続いて森へ入って行くのを示している所などから成る程なと思わせた。

 森へ入ると、その住人とも言える主人公の男が、木を切り、それを割って薪を作ったり、森の中を流れる川で生活用水を汲んで運んだり、娘であろか可憐な少女と森の中を長々と歩き、樹の名前を言ったり、鹿を見たりといった山の生活が現れる。

 ところがそこへ都会の芸能事務所がコロナの補助金をもとにグランピング場を作ろうとして、住民へのた説明会にやってくる。山の人たちも戦後開拓用に与えられたこの地に移住してきた人達であるが、グランピング場の汚水処理で下流の水が汚染されることを恐れ計画に反対する。しかし、芸能事務所の方は補助金のことがあり、あくまでも計画を進めようとする。

 こうくれば環境問題の争いかと思われるが、この映画はその対立を描くものではなく、「まだ誰も賛成でも反対でもない、ここらの住民は戦後農地改革で土地がない人に与えられたものだ。ある意味、みんなよそもんなんだ。俺たちは自然を利用し、壊しもしてきた。問題はバランスだ。やりすぎたらバランスが崩れる。どう調整して行くべきかだ。」という。ブラック企業のビジネスや官僚主義土地開発計画にある凡庸な悪が存在しているという問題をあぶり出しているだけなのである。

 芸能事務所の係の二人は再び現地に戻って、住民の説得にあたろうとするが、計画の無理なことを知り、本人たちは会社を辞めようかとも思案し、水汲みや薪割りを手伝って山の人たちの生活を覚え、善も悪もなく、主人公に倣ってこの土地に生きようとする。

 グランピングによって鹿の通り道が塞がれることなどもわかって来る。複雑に絡む生物の世界にも光を当て、そこに潜む生々しいしい現実を直視させようとする。問題の解決を示そうとするのではなく、人間が自然の中でその環境とどう調整して行くべきか、容易に解決できない問題と共に生きて行くことを促しているように思える。

 そうした中最後の場面では、主人公が子供の迎えの時刻を忘れていて、子供が行方不明になり、住民が手分けして暮れた山中を探すがなかなか見つからない。やっと見つかった少女は草原の中で傷ついた鹿と向き合っている。それを見て主人公は咄嗟に同行の芸能事務所の男を突き飛ばし、組み伏せ窒息させ、少女の所に走り少女を抱きあげて草原を去るendingになる。

 衝撃的で唐突の終わり方になるが、少女と鹿の眼差しが交錯し互いに射抜く時に唐突に幕を閉じた、この曖昧で緊張感を持った結末をどう見るかは見る人次第であろう。言葉が少なく、映像で表現、物の善悪も割り切るのではなく、見る人々に考えてもらおうということか。

「悪は存在しない」とするタイトルも映像からどう見るか、誰しも悪の側にも善に側にも立ちうる現実社会で、悪きことは見ぬふりをし、問題を先送りする人々に異議を唱えることさえないことなどと考え合わせてみるべきであろう。

 一回では作者の意図の全てを把握し難い映画で、3回見てやっとわかったという評も出ていた。