いかに死ぬか

 若い人は如何にに生きるかを考えなければならないが、95歳も過ぎると、今度は如何に死ぬかに心を配らなければならなくなる。人間はいつまでも生きられるものではない。 

 死は運を天に任せなければならないもので、人がどうこう出来るものではないが、やはり出来ればあまり周囲に面倒をかけずに静かに死んでいきたいものである。死に様は美しくありたいのが人情であろう。

 私の父は、母によると風呂で倒れたのをベッドまで運んだというのだが、私の知っている限りでは、意識なく昏睡状態が続き近医に往診して貰い2〜3日で静かに亡くなったし、母も夜トイレから帰ったところなのか、行こうとしてベッドから起きあがろうとしたのかわからないが、気がついた時には動きかけた格好でベッドで息絶えていた。両親共に、全くと言っても良いぐらい我々の手を煩わすことなく亡くなっている。

 せめて死ぬ時ぐらいは、両親を見習って誰にもあまり迷惑をかけずに、そっと静かに死にたいものである。ただし、こればかりは計画通りにいくものではなく、運を天に任せるより仕方がないであろう。それより残された時間を如何に有意義に暮らすかの方が大事であろう。

 私ももう直ぐ満年齢で96歳になるので、仮に100歳まで生きるとしても、後4年しか残っていない。日数にしても、もう365×4=1460日しかない訳である。実際には100歳までは無理だろうし、そのうちには死前の何も出来ない時間、意識をなくしてから死ぬまでの時間もあるだろうから実質はもっと短いであろう。最後の千日というところか。

  残り少ない貴重な時間である。最早老人に大したことが出来ないのは当然であろうが、身の回りの事に限っても、やり残していることは山ほどある。あちこち世界各地を旅行した時の関係資料や、溜め込んだあちこちの写真や複製画などは全て断捨離で思い切って処分してしまったが、書斎の棚に溜まった長年の資料類まではとても手が回らない。

 このブログにしてもこの七月で丁度十年になるが、出来ればもっと続けたい。これまでにあちこちで発表したり、原稿のまま残っている多くの写真も整理して纏めたい。リサイクルアートと言っているガラクタの類も、出来れば整理してどこかで発表するにこしたことはない。ブログ以前に書いてまだ本に纏めていない文も出来れば整理したい、等等。

 やり残していることは山ほどあるが、とても皆は片付けられない。残ったものは死後にまとめて目をつぶって全て捨てて貰うのが一番良いのではないかと思っている。