犬山城白帝文庫「小出家文書」

 父が亡くなって相続の時、小出家の鎧兜や古文書など古くから伝わってきたものは全て弟に引き継いで貰うことにした。兄には子供がなく、私のところは娘二人で、しかも二人ともアメリカに行ってしまったので、小出家としてあと引き継いで貰えるとすれば、男の子のいる弟の所しかなかった。

 幸い弟が新聞記者をしており、我が家の歴史にも興味があったので、少し調べたものを本に纏めていたこともあり、故郷の犬山市郷土史家などとも関係が出来、そのつながりで、昨年犬山市が開いた「成瀬家の家臣たち」と言う展覧会にも、我が家の甲冑なども展示してもらったことはこのブログでも触れた通りである。

 ところが、それが機縁となり、我が家に伝わってきた古文書なども犬山の学芸員さんが解読していただき、今回それを纏めた記録を犬山城白帝文庫の研究紀要として発表され、その記録を送っていただいた。

 古文書の崩した仮名文字などとても普通には読めるものでなく、一纏めにして保管されてきたものであるが、さすがその道の専門家である。よくもここまで詳しく解読したものだと驚かされるばかりだが、根気よく解読してもらうと生き返るものである。紀要にも書かれているように、これにより江戸時代後期のある武家の日常生活の一端が分かり、興味ある歴史的事実として日の目を見ることになった。感謝の至りである。

 それにしてもこのような日常茶飯事の記録がよくもこれまで保存されてきたものである。父は祖父の死亡時まだ七歳ぐらいだったから、当時の母親が保存したものであろうが、明治の激動の時代の母子家庭で、犬山の家も売り払い苦労したであろうし、父も学生時代はあちこち動いているし、一家を構えてからも銀行勤めで転勤も繰り返していたことであろう。

 私が生まれてからだけでも、西宮から箕面へ移り、東京へ行き、そこでも2回も引っ越しているし、また大阪へ帰ったと思えば、戦争で空襲にも遭い、家財の一部は焼失しているし、

田舎への疎開などもあった。このように数えきれない程、引っ越しも繰り返してきたのに、よくぞ古文書などが無事に残っていたものだと感心せざるを得ない。

 その古文書もただ残っているだけでは、宝の持ちくされに過ぎない。もし私が引き継いでいたら、甲冑などは残っても、古文書などは果たして残っていたかどうか疑わしい。よくぞこれまで残って日の目を見ることになったのは僥倖としか言いようがない。

 そんなお蔭で、私も5代前の祖先までの生活の一端や、死亡年齢、その時その時の犬山藩内での仕事内容、勘定奉行や普請奉行、町奉行、参政職など色々やっていたようで、扶持も80石から途中で百石に増えたことなども知ることが出来た。

 それにしても、紀要に記された小出家文書目録の詳細な記載にはただ頭が下がる。専門家とはいえ、これだけ詳細に調べて頂いたことを心から感謝する次第である。