日曜以外の休みの日を何となく祝祭日と言っていたが、戦後法的に決められた祭日はなくなったそうである。今あるのは日曜か祝日だけである。
年間の祝日の数は2016年から8月11日が山に日になることが決まっているのでそれを合わせると年間16日になるらしい。
ところが私の子供の頃は11日しかなかった。それでも明治の初めに祝祭日が決められた時には8日しかなかったそうだから増えていたことになる。しかしその頃は子供には分からなかったが、祝日と祭日の区別があり、祝日は国民全体が祝う日で、祭日は皇室の祭事が行われる日と区別されていたようであった。
いづれもそれぞれの由来があり、正月の元旦は四方拝等とも言われたが、これは法的な祝祭日には入っておらず、昔からの年の初めということで慣習的に休みとなっていたのだそうである。そして3日が元始祭という宮中での新年の祭祀で祭日、5日が新年宴会と言う国を挙げての新年の祝日となっていたらしい。
あと祝日は2月11日の紀元節、いまは建国の日となっている。次いで4月29日が天長節で昭和天皇の誕生日、そして11月3日の明治節(明治天皇の誕生日)、今の文化の日で、合わせてこの4日が祝日として皆で祝う日とされ、祭日は宮中での決まった祭祀の日で春分と秋分が春期皇霊祭、秋期皇霊祭といわれ、4月3日が神武天皇祭で12月25日が大正天皇祭、それと10月17日の神嘗祭に11月23日の新嘗祭で、合わせて7日、祝祭日合わせて11日ということになっていたようである。
子供たちに取ってはそんな区別はどうでもよく、兎に角学校が休みになればそれでよかった。しかし、その頃は祝日はそのまま休んでよいというものではなく、学校で式典があり登校しなければならなかったのである。
学校では生徒は皆講堂に集められ校長先生の読む教育勅語を聞かねばならなかった。その頃はまだ天皇が神様だったので、神様のお言葉は神妙に聴かないとバチがあたるような有り難いものなので、子供たちは教育勅語の難しい文章の意味が分からなくても、皆頭から暗唱させられたものであった。
そんな恐れ多い勅語なのでその取り扱いも大変で、学校には何処にでも奉安殿といった小さな御堂のような建物があり、平素はその中に格納してあり、祝日に読み上げる時だけ外へ持ち出されることになっていた。その保管も厳重で、たとへ学校が火事で燃えても教育勅語だけは死を賭しても守らなければならないものとされていた。
祝日の中でも一番印象に残っているのは何故か紀元節である。一年で一番寒い時であり、祝日としても万世一系の天皇家の始まりとされ、一番重視されていたからかも知れない。式典には教育委員や市長、議員等の外部の人も大勢来るのが普通で、学校としても手違い等が起こらないように細心の注意を払わなければならなかったのであろう。
従って、教育勅語を朗読するのも簡単ではなく、生徒の指導などにも手落ちがないように、前日に教頭先生が校長の代わりに生徒全員を講堂に集め、式典の予行演習が行われた。その時は丸めた紙をのばして勅語に見立て、「朕思うに」だけ言って間は飛ばし「御名御璽」で締めくくり、本番で失敗しないように生徒にやり方を練習させたわけである。
生徒は勅語を読んでいる間「キオツけ」の姿勢でそれを聴くことになっており、終われば最敬礼をしなければならないのである。「そこの子頭が高い。もっと頭を下げろ」などと注意が飛ぶのが普通。もう頭を上げてよろしいと言われて生徒たちは頭をあげる。やれやれである。勅語を読んでいる間じっと我慢していたのが終わった途端に緊張が緩み、あっちでもこっちでも一斉に咳やくしゃみをしたり、鼻をすすったりするのが普通であった。
本番の日には式典の始まるより前に、校長と教頭等が礼服に白手袋をして奉安殿に向かい、厳かに扉を開けて最敬礼をして教育勅語の入った桐の箱を取り出し、それを三宝の上に乗せて、恭しくゆっくりと式場の机の上まで運んでおくことになる。
式が始まり勅語を読む段になると、再び白い手袋をはめ、最敬礼してから机の上の桐の箱を開いて教育勅語の巻物を取り出す。続いて巻物の紐を解き、紐の端が下へ垂れないように巻物の上端に引っ掻け、右手で巻物の始まりの部分をしっかり支え、手袋をはめた左手でゆっくりとおそるおそる巻物を開いていく。失敗は許されないので少しばかり技術が要る動作である。全部開き終わったら、巻物を両手でかざすようにして少し持ち上げ、もう一度頭を下げてからおもむろに読み始める。
「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉 ...・・・」
貴い現人神のお言葉なので出席者全員起立して直立不動の姿勢で少し頭を下げて聴かなければならないことになっていた。しかし子供に取っては言葉の意味も分からないのでお経を聴いているようなものである。退屈なので子供たちは頭を下げながらも上目遣いに校長の仕草を一心に眺めているのが普通であった。
そしてひたすら終の印の「御名御璽」を待つのだった。「御名御璽」が来れば最敬礼して終り。やっと解放されることになる。終われば一目散に家へ飛んで帰る。折角の休みの日である。子供にもすることがいっぱいあったのである。
なお私の小学校の低学年の頃にはまだ式典の後に紅白の饅頭が配られていたような気がする。式を我慢して饅頭を貰うのを楽しみにしていたように思う。
その頃は教育勅語の一つ一つの語句の説明より先ずは暗記させることが優先されていたのか、語句の解説などをまともに聴いた憶えがないし、「御名御璽」など「朕」などと同様な一種の記号のようなもので、長い間「名前と印鑑」のこととは知らなかった憶えがある。
また子供同士の会話で「天皇が自分のことを朕(チン)と言うなら皇后は自分のことをどう言うか知ってるか」などと言い合ったりしたことも懐かしい思い出である。