消えない大阪大空襲の記憶

 また3月11日がやってきた。東日本大震災からもう13年も経つが、今でもTVで見た津波が押し寄せて来て、見る間に家々が飲み込まれて流されて行き、先に山の上に逃れた人たちが後から登ってくる人たちに「早く!早く!」と声をかけている姿。原子炉の上からヘリコプターが水をかける映像、原子炉が爆発して白い煙が舞い上がる姿などが、つい先日のことのように思い出される。

 それに、今年は元日の夕方から能登半島地震、テレビをつけたら突然「逃げてください!逃げてください!」と叫んでいるではないか。それに夕方になると、今度は羽田空港の旅客機の火事の映像が続き、輪島の火事も間に挟まれ、おとそ気分も一気に吹き飛んでしまったのであった。

 以来テレビは能登半島地震のことばかり、嫌でも地震のことばかりが気になるが、それとともに3月になると、私にとっては今でも思い出されるのが、1945年3月13日に深夜から14日未明にかけての大阪大空襲である。

 これについては、すでにあちこちで書いているので、ここでは詳しいことは全て省略するが、見渡す限りの空の端から端まで、まるで花火のように火の玉が降って来たこと、みるみるうちにあちからもこちからも火の手が上がり、どうすることも出来ず、一方的に火を浴びるだけで、天王寺公園の美術館に逃げたこと、朝が明けると、そこらはもう見渡す限りの焼け野が原で、あべのハルカスの所にあった大鉄百貨店も丸焼け、見渡す限りの焼け跡で、阿倍野橋から上六のデパートの鉄筋建てまで何もなくなってしまって、すぐそこに見えたことなどを今だに鮮明に覚えている。どれだけの人たちが亡くなったか知る由もなかった。

 その後4月の初めには海軍兵学校に入学するも4ヶ月で敗戦。それから長い惨めな戦後の生活が始まったのである。思い出は必然的に繋がっていく。もう今では空襲を生き延びた人も少なくなり。戦後の惨めな生活さえ知らない人が多くなってしまっているが、以来79年経ってもいまだにアメリカの属国から脱し得ないのはどう考えても情けない。