大阪大空襲の記憶

 もう77年も昔のことで、今では実際に経験した人も少なくなってしまったが、私にとっては未だに昨日のことのように思い出される。昭和20年3月13日の夜から14日の朝にかけての大阪大空襲のことである。

 当時、私は天王寺公園天王寺駅に近い茶臼山に住んでいた。大阪の前に東京の大空襲があり、一日置いて名古屋の空襲があったので、今度は大阪へ来るぞとの予想はついていた。それだからと言って住民には何が出来るということはなかった。ただ恐れながら待っているしかなかったところに、B29が予想どうりやった来たのであった。

 あんなこの世のものとは思えない光景は二度と見られるものではない。見渡す限りの空一面から火の玉が降って来るのである。こんなことを言ったら不謹慎だと言われるだろうが、空全体から花火が降って来るようなものだった。花火なら良いが、やがて、あっちからも、こっちからも火の手が上がって大火事となった。

 最早バケツで水をかけて消えるようなものではない。隣の家では一旦消したと言っていたが、結局は燃えてしまった。裏の大きな寺の本堂も燃え出したが、どうすることも出来ない。ただ呆然と燃えるのを見ているだけであった。忽ちあちことから火の手が上がり、消火どころではない。

 そのうちに南の方の家も燃え出し、一面火の海となって来た。警防団の人が「もう火に囲まれるから逃げて下さい」と言うので、毛布を被って、すぐ近くの天王寺公園の慶沢園の垣根を乗り越え、天王寺美術館へ逃げた。どうしてあの垣根を乗り越えたのか思い出せない。

 そこそこ広い公園にある美術館は高い所にあるのでそこから周囲を眺められた。安全な所へ逃げられたので後は何もすることもない。火の海となって燃えている周囲を眺めているよりなかった。

 昭和9年の台風で倒れ、やっと復旧していた四天王寺五重塔も燃えてしまったし、松屋町筋の南にあった武道館の燃え尽きるのも見ていた。現在のあべのハルカスの所にあった、当時の大鉄百貨店、後の近鉄百貨店もどの窓からも全て火が噴き出していた。全焼であった。

 戦争が始まった頃には、住民が全て動員されて、防空訓練などが盛んに行われたが、バケツリレーに火叩き、手押しのポンプや、小さなな貯水槽の設置、床下の防空壕など、といった防空対策は全く役に立たなかった。あのような大規模な空襲を予想出来なかったのか、それに対処出来る備えをする能力がなかったのか。一般住民は、ただ焼夷弾を避け、火事の中を命からがら逃げるよりなかった。その時の悔しさが今でも忘れられない。

 朝になって敵機は去り、火事も燃え尽きたのか、下火になったので、もう我が家も焼けてしまったことだろうと思って、恐る恐る引き返してみたところ、我が家の一角だけが残っているではないか、その時の喜びも忘れられない。天祐としか言いようがない。焼け残ったお蔭でその後の運命がどれほど変わったことであろうか。

 ところが我が家の裏へ回ってみると、そこから北も東も一面焼け野が原が延々と何処までも続いているではないか。焼け落ちた瓦礫や燃え残った電柱や壁の一部、焼け残った蔵がぽつぽつと見られる。一夜にして変わってしまい、全てが褐色の世界が何処までも続いていた。

 北の方を見れば、四天王寺がすっかり焼け落ちてしまったので、上六の近鉄百貨店がすぐそこに見える、そこまで何にもない焼け跡が続いていた。南では阿倍野近鉄百貨店も燃え尽きてがらんどうになり、どの窓からも斜め上方に黒い煤が走っていた。

 未だ空襲が続き、街が火に包まれる頃までは「畜生やりやがったな、この仇はきっと討ってやるぞ」と意気込んでもいたが、この全てが焼け野原になった惨状を目の当たりにしては、余りにもの情けなさに意気消沈、もはや言葉も出なかった。何も出来ない無念さで一杯であった。

 この時の記憶はもう死ぬまで消えないであろう。戦争が終わって、アチこちで花火大会が行われるようになっても、花火を真下で見ると、その夜の空襲の光景が思い出されて、長い間、花火大会へ誘われても避けていたものだった。