東日本大震災から12年

 この3月11日で東日本大震災から12年になる。これは単に大地震津波という天災だけではない。福島原子力発電所の爆発が加わり、未だにその後処理が済んでいない歴史的な大事故であった。

 破壊された原子炉は未だに処理出来ずに、そのままだし、壊れた原子炉を維持するための冷却水は溜まりに溜まって広い工場の敷地一杯に処理水が溜まり、とうとう薄めて太平洋に放出する計画が進んでいる。 世界共有の海を放射性トリチウムを含んだ汚染水で汚すことになるのに、世界の国々の了解も得られないまま実行しようとさえしている。

 もともと原子力発電所の危険性については、早くから国会でも議論されていたのに、十分な対策が取られないままに事故につながった歴史があるのに、今また政府は原子力発電所の再稼働を進め、国のエネルギー政策の根幹に据えようとしている。

 放射能に侵され、住居を失った人々は故郷を奪われ、未だに故郷に戻れない人も多いし、戻ることを諦め新天地で生きていくよりなかった人々も多い。それにもかかわらず、被害者の補償も十分には済んでいない。

 地震津波によって破壊された広範な土地の復興も、住民の復興ではなく、土地の復興が優先され、馬鹿高い防潮堤が続き、海でクラス人が多い土地なのに海が切り離され、土地や道路が整備されても、住む人がいないのが現状のようである。

 昔津波にあった人が「これより下には家を建てるな」と警告の石碑を建てていたのに、後世の人はそれを守らなかったとも言われるが、漁業が生業で海に暮らす人たちは毎日の生活のためには海の近くに暮らし、そこで仕事をしなければ生活が成り立たないので、必然的に記憶の薄らぐとともに、また海辺に住み着くことになったものであろう。

 そういう地域住民の基本的な生活を考えて復興事業が進められたのだろうか。それより机上の計算と工事の収益が優先した復興だったのであろうか。避難せざるを得なかった住民がいなくなった村の復興が、どのように進められたのであろうか疑問は尽きない。

 それは兎も角、この震災が起こった時、私は天王寺美術館の地下の展示場にいたことを思い出す。長周期の揺れが遠く離れた大阪でも感じられ、何かふらつくような感じに襲われ、一瞬自分の体の具合が悪いのかと思ったが、来ていた他の人も同じように感じたらしく「オタクもですか」と顔を見合わせ、「これはひょっとしたら地震かも、地下にいてはやばいかも」と思って外へ出た見たが、外の様子はいつもと全く変わりなく平静だったので、一安心したものであったことを思い出す。

 その後、家へ帰って、テレビで津波の状況を見ていた時のことも忘れられない。山の上に先に逃れた人が後から登ってくる人に向かって「早く!早く!」と叫んでいた場面」や、津波が集落を襲い出し、次から次へと建物が呑み込まれ、動いて流されていくのを「あれよあれよ」と見ているより他なかった切なさをも思い出さされた。

 震災が済んで時間が経つと、震災についての感想や教訓が流されるようになったが、その中で「てんでんこ」という言葉の大事さや、昔の人が後世の人への教訓として建てた石碑のことなどが語られるとともに、震災についての多くの歌や句も流された。また多くの人たちが救援に東北に行き、ミュージシャンたちも被災者の慰問に出かけたが、いつかこのブログにも書いたように、被害者の魚師の「頑張ろうなどというな」という言葉を忘れてはならない。家も仕事も失った人の心に寄り添うべきであろう。(2021.03.10.のBlog)

 今年はまた関東大震災から丁度100年になる。私の子供の頃は、まだ震災より10年ばかりの頃だったので、今の東日本災害同様に、関東大震災の話をよく聞かされたものであった。浅草の十二階の崩壊、被服廠跡地で大勢の被災者が火に巻き込まれ死んだこと、朝鮮人がたくさん殺されたこと、日本人なのに地方出身で発音が悪かったために殺された人もいたとかもあった。谷崎潤一郎をはじめ多くの人たちが関西に逃げてきて住むようになった、東海道線丹那トンネルを抜けると、途端にバラックのような建物が増えるのは震災のためだとか、いろいろ聞かされたものであった。

 もう今では関東大震災の時のことなど話す人は殆どいなくなったが、恐らく、今の子供たちは東日本大震災についていろいろ聞かされていることであろう。今また大地震が来るのは必定だと言われているが、分かっていても備えは万全などとは行かないもので、また大混乱を来たすことの方が必定であろう。