患者から見た現代の病院

 既にこのブログでも述べたように、私は3月末に特発性血小板減少症で急に近くの病院に入院した。わずか5日間の入院であったが、連日長時間かけてのガンマーグロブリンの大量点滴注射を受けていたので、まるで鎖に繋がれた囚人の如くに行動を制限されていた。

 早朝病院の廊下を散策した以外には、殆どベッドしかない病室に閉じこもっているだけの生活であったが、そこで受けた現在の市中病院の印象は、昔医師として活躍していた頃の病院とはかなり違ったものになっているように感じた。

 病院の建物自体が昔より合理的に出来ているし、ITが取り入れられているので、外来の受付も検査室、採血室など全てがより有効に組織化されて造られ、運用されている。従って、全く初めての人はまごつくだろうが、慣れれば全てが快適に流れるように考えられている。もちろん、まだ発展途上なので万事OKというわけにはいかないが、昔の病院に比べれば、全てが効率良く、しかも安全に動くように仕組まれているように思えた。

 入院した病棟では、昔と違って定時にナースがパソコンを乗せた台車を持って病室をまわり、脈拍、血圧、酸素飽和度を測り、その場でパソコンに入力するので、カルテに書き込むようなこともなく、記録は正確に記録され統合されることになる。ただ気になったのは、昔の看護日誌などはもうないであろうが、その代替のパソコンの記録はどうなっているのであろうかということであった。

 今やどこの病院でもIT化が進み、一旦入力された全てのデータが一箇所に集まり、全てのスタッフが情報を共有出来るので、情報の偏りはまずなくなったであろう。しかし、その分機械の操作などに時間を取られ、患者との触れ合いの機会が減ることになる。微妙なことは入力時に取捨選択されるので、端折られて情報が捨てられていることもあるに違いない。

 それに昔よりはるかに検査やその他の所見が豊富なので、今では患者との会話によるやり取りや、診察による体の微細な所見などより、豊富な検査データなどの記録が優先し、それらの総合が患者の全体像として捉えられているので、微妙な所見や患者とのやり取りから得られる所見はどうしても適当にカットされることになるだろうし、患者と病院側の微妙な意思の疎通の拗れなどが生じやすいのではなかろうか。

 今回の入院で驚いたことは、外来での診察から入院して退院するまで、医師もナースも私の体を見ようとせず、直接の身体検査は一度もなく、聴診器を当てられることもなく、両大腿から足先まで広がっている点状出血斑を誰も見ようとはしなかったことである。それを見たのは病棟の一人のナースだけであった。

 血液検査の結果から、病歴や診察所見がなくとも、免疫性血小板減少性紫斑病との診断は出来るし、そうと決まれば、それに対する豊富な検査結果その他の情報をもとに、標準治療を進めることになり、効率的であろうが、個人によって異なる細かな所見などは無視されることになる。

 病院の患者の管理については昔よりはるかに進み、何をするにも患者の間違い、検体の取り違えなどのないように、名前のくどい程の確認、定型的な患者の状態の把握などの管理は徹底されているようであった。だが、定型から外れる患者と医師やナースの細々とした会話などが減り、患者に対する細やかな説明なども減ったような感じがした。

 給食も昔より良くなり、配膳時刻も適正だし、個人識別、栄養価を計算された食事が配られるが、おかしいと思ったのはお茶の給付がないことであった。水分をどれだけとっているかなど、栄養摂取同様重要なことだと思われるが、少なくとも一般患者については摂取水分量のチェックはない様で、各自が院内の自動販売機で水やお茶、ジュースなどを適当の買って飲むことになっていた。これから夏になって異常温度が続く時など、老人患者についての水分補給の確認などはどうなっているのであろうか。

 病院の運営、それに伴う外来や病棟でのI T化はかなり進んできて、運営の効率化、正確度は確実に増しているのであろうが、それに伴って切り捨てられたり見失われた部分も医療全体から見て無視出来るものではなく、患者中心の医療と言いながら、どうしても両者のコミュニケーションは後回しになっているような気がしないではなかった。

 Evidence Based Medicineは進むが、Narrative Based Medicineも無視されてはならないのではなかろうか。