懐かしい昔の市電

 私は中学生の頃、大阪市内の天王寺公園のすぐ近くに住んでいたので、市内の何処へ行くにも、いつも市電を利用していた。もう市電がなくなってからずいぶん年月も経ってしまったが、今でも上町線阪堺線の電車を見ると懐かしくなる。

 まだ戦前から戦後にかけてのことであるが、霞町の所に市電の車庫があり、そこから今のJR線に沿って坂を上がって来て公園の端の阿部野橋から直角に曲がって停留所があった様な気がする。

 戦前には朝の割引乗車券は往復で9銭、一回だけの普通乗車券が7銭、16回の回数券が1円だったかと思う。よく利用したのは何故だったか覚えていないが、大阪駅から四つ橋筋を通り大黒町、恵比寿町、霞町を通って阿部野橋に至る線や、堺筋を北上して長良橋を越えて引き返す線。上本町を通り、お城の前から天満橋淀屋橋を経て梅田へ行く線などであった。本町から長々と西へ走り築港まで行く線もあった。

 また、淀川沿いに守口まで行く線も淀川の河川敷でグライダーに乗っていた時によく利用した。天王寺駅のすぐ北側から出て寺田町を通り、玉造まで環状線沿いに走り、玉造で左折して西へ向かい、心斎橋を経て川口や本田2丁目に行く線も、親戚の医師がいつも利用していたので知っていた。

 当時はまだ骨董品の様な古い車両も残っており、運転席が客席の外の車体の前後の乗降口にある様なのも走っており、何処だったか忘れたが、終点に着いたら、乗客を全て下ろしてから、車掌さんが車外に出てポールを引っ張って下げて架線からはずし、ポールを引っ張りながら電車の横を通り、ポールを反対向きにして架線に戻し、市電が反対方向に走れる様にするのを見ていたこともあった。

 市電は路線が網の目のように張り廻らされており、停留所も多く、何処からでも簡単に乗れるし、乗り換えも簡単なので、市内の足として愛され、チンチン電車などと言われて、広く利用されていた。まさに文字通りなくてはならない市民の足であったといっても良い。

 よく電車の一番前の運転手のすぐ後ろ横にずっと立ち尽くして、前方の景色見ながら、気持ち良い風を感じ取っていたものであった。どこかの交差点で乗り換えるにも、サッと降りて道路を横ぎり、直角の道の他の市電に乗り換えるなど軽快に利用していた。

 また戦中には「祝南京陥落」などといった派手な花電車が走ったこともあったし、戦後にはアメリカ兵も乗り、運転席の後ろにQFF LIMITと書かれた札がぶら下がっていたことも覚えている。

 しかし、そのうちに次第に車の走行が多くなって、交通渋滞が頻繁に起こるようになって、市電は1969年3月31日を以て廃止されてしまった。それと同時に地下鉄が縦横に走る様になって市民の足を確保することになったが、地下鉄は乗れば速いが、駅の間隔が遠く、地下へ降りたり、改札を通ったりとアクセスが不便で、やはり何処でも気軽に乗り降り出来る路面電車の魅力は捨てがたく、それがなくなったことは残念である。

 時代の流れで致し方なかったのかも知れないが、ヨーロッパの国などで昔からの路面電車を残している国もある。日本でも車社会の圧力に抗しても、もう少し市電の便利さを残しておいてもも良かったのではないかと思わざるを得ない。