戦後は花火が怖かった

 この年末年始も世界中のあちこちで、華やかな花火やイルミネーションなどが歓喜の声に乗せられて空高く上がったが、パレスチナガザ地区では、正月にも休むことなく、続くロケットや爆弾、砲火による攻撃は止むことなく、空から降りそそぎ、街を破壊し、人々を殺傷している現実のコントラストを描いたものが上の写真だが、私はこれを見て、思わず昭和20年3月の大阪大空襲を思い出した。

 13日の夜から14日の朝にかけてのことであった。私は大阪市内の、今のアベノハルカスの北にある天王寺公園のすぐ横に住んでいた。その時の大阪空襲は凄まじかった。アメリカのB29爆撃機が何十機も空を飛び、真っ暗な空から爆音は聞こえるけれども姿は見えなかった。来たなと思う魔もなく無数の焼夷弾を落とし始めた。
 焼夷弾というのは油脂を詰めた爆弾で、燃えながら空から降ってくるのである。それが見渡す限りの空中から光りながら落ちてくるのである。それを真下から見せられたわけである。

 下の写真のように見渡す限りの空中から火が降ってくるのである。音はしないが、沈黙の花火が空一面から降りてくるのに似ている。一瞬、綺麗だなあと思わずにはおれなかった。こんな光景はもう二度と見れないだろうと思った。

 空の上のことだからどうしようもない、ただ空を眺めて見ているだけであった。そのうちにあちらこちらから火の手が上がった。すぐ東隣の家に騒ぎが起きたが「消しとめたぞ」という声が聞こえ一安心したと思ったら、今度は北隣のお寺の本堂から火の手が上がった。

 お寺の庭を通してよく見えたが、燃え上がる大きなお堂の火事にはどうすることも出来ない。お寺全体が火炎に包まれて、やがて燃え落ちるまで、ただ見守るだけしか出来なかった。

 このお寺が焼け落ちたと思ったら、今度は南の二、三軒先の家が燃え出したが、それもどうすることも出来ない。ただあれよあれよというばかり。そのうちに警防団の人がもう火に囲まれるから逃げて下さいと叫ぶ。こうなったらもう逃げるよりないと、毛布に水をかけて、頭から被り、すぐ横の天王寺公園の石垣をよじ登って逃げたのであった。

 朝になったら、もう見渡す限りの焼け野が原。家々も木々もすっかりなくなり、あたり一面が褐色の焼け土や石ころ、燃えた後の褐色の金属板や鉄棒、針金や焼け残りの木片などで覆われ、まだあちこちにちらちらと残り火が燃えていた。

 もう80年も昔のことなのに昨日のことの様に思い出される。その衝撃が強かったのか、戦後になって、あちこちで花火大会が開かれる様になってからも、花火を間近に見ると、この空襲の夜が思い出され、長い間、花火は遠くからしか見れなかったものであった。

 下の写真を見てつくづく3月13日の大阪大空襲を思い出したのは私だけではないだろう。

落ちてくる光や火は派手でも、その下にいる人たちにとっては、それこそ命がかかっているのである。