もう77年も昔のことになってしまったが、私にとってはまだついこの間のことのようにしか思えない出来事であった。生きている限り、大阪大空襲のことは決して忘れられない。1945年、敗戦の年の3月13日、深夜から14日の明け方にかけてのことであった。
既ににその前、3月10日に東京の大空襲があり、一日置いて12日には名古屋の大空襲が続いたから。当然今度は大阪だろうと身構えていた。しかし、身構えると言っても、用水桶の水にバケツと火叩きぐらいしかないので、爆弾が落ちてくるのを待つしかなかった。
案の定、深夜になって、記録によると、11時57分から14日の3時25分にかけての約3時間だったらしいが、B29爆撃機279機による空襲であった。敵機編隊が潮岬上空を通過したと言うラジオ放送があり、いよいよ来たかと思っているうちに、空から爆音が聞こえ、やがて焼夷弾が落ちてくるのが見られた。
たちまち全面的に焼夷弾を落とし始めたようで、空中から一面に火が降ってきた。焼夷弾というのは、クラスター爆弾で、それぞれが38個の焼夷弾から出来ており、それが飛行機から落とされると、個々の焼夷弾がバラバラになって、その油脂が燃えながら落ちてくるようになっているのである。
それを無数の飛行機が上空2千メートルから一斉に落とすので、空一面から火が落ちてくるわけである。こんな景色は二度と見れない。花火は天空の一角が光るだけであるが、焼夷弾攻撃はいわば見渡す限りの空中が花火といった感じとも言えるかも知れない。こんな景色は二度と見られないし、見たくもない。
燃え盛る油脂が空中から落ちてくるのだから、落ちた所は何処も火事になる。あちこちで一斉に燃えるので、たちまち地上の火事は広範に広がることになる。アメリカは3月の一番乾燥していて燃えやすい時期を選んで空襲を始めたのだった。
我が家の場合は、初め東隣の家に焼夷弾が落ちたらしい。屋根裏に落ちたようだったが、「消し止めたぞ」という声が聞こえたので、良かったなあと思っていると、今度は北隣の寺の大きな本堂が燃え始めた。大きな炎を上げて燃え上がっているが、どうしようもない。あれよあれよと見ているだけで何も出来ない。
そのうちに南の方からも火の手が上がる。当時は空襲でも国民は防空の義務があり、自宅を守り逃げてはいけないことになっていたが、やってきた警防団の人が、もう火に囲まれるから逃げて下さいという。それに急かされて、まだ春先で寒かったので、毛布一枚被って、近くの天王寺公園の慶沢園の石垣をよじ登って、公園の中にある美術館の地下に逃げた。命からがらとはこういうことを言うのだなと思ったものであった。
美術館なら建物も頑丈であるし、広い庭に囲まれているのでもう安心である。小高い所にあるので、周囲の様子もよくわかる。何もすることがないので周囲を眺めていると、すぐ北側の松屋町筋の南にあった大きな武道館が燃えているし、南側の大鉄百貨店も窓という窓から火を吹いている。折角、室戸台風で倒れたのを再建したところなのに、四天王寺の五重塔も燃えてしまった。四方八方燃えているので、もう燃え尽きるのを待つより仕方がない。
夜が明けて明るくなる頃になって、もうあらかた燃え尽きたのか、四方八方、全て焼け落ちて何もなくなり、所々に土壁の蔵が焦げた壁面を見せたまま残っているだけの景色である。まだあちこちに、残火のように、地面に燃える火も見えていたが、もう燃えるものもなくなり、ただ一面の褐色の焦土となってしまっていた。
自宅がどうなったのか、あれではもう燃えてしまっただろうと思いながら、恐る恐る戻って見る。丁度我が家の狭い一画の何軒かだけが残っているではないか。良かった良かったと思いながら家の裏手へ回っていると、我が家が境で、もうそこから先の北側はすっかり何もない焼け野が原に変貌し、何も残っていない。東隣の折角消し止めたと言っていた家も跡形もなく、延々と焼け跡が続き、遥か彼方の上六の大鉄百貨店のビルががすぐ近くに見えるではないか。あとは見渡す限り全て焼け跡である。
焼け跡は全てが褐色である。焼けた家の土台に残る瓦礫も褐色、焼け残った金属も錆びた褐色、焼けた板のあとに残った蔵の土壁も褐色、焼け残った木の幹も枝も褐色、全てが地獄のような褐色に覆われ、地面のあちこちにはまだチョロチョロと残火が赤く燃えている。同じ焼け跡の風景が見渡す限り際限もなく続いていた。
今では想像もつかないが、大阪の中心部までが全て同じように焼け跡となり、淀屋橋から御堂筋を見ても、見渡す限りの焼け跡で、残っているのはガスビルと、本町の角にあったイトマンの建物だけであった。
それにしても、自宅が焼け残ったのは本当に偶然でラッキーであった。空襲で焼け出されたり、殺された多くの人々のことを思うと、本当に申し訳ない気がする。我が家でも、空襲のことも考えて、あらかじめ当座に使わないような家財などを隣町の倉庫に疎開させていたが、そちらは完全に燃えてしまったが、それぐらいで済んだことは良しとしなければならないであろう。
もし空襲で焼け出されていたら、あの敗戦直後の厳しかった地獄のような時代をどう乗り越えていたのだろうかと考えると、今でも本当に良くも助かったものだと思う。この空襲の記憶は死ぬまで消えることはないであろう。
あの空一面から火が落ちてきた夜空の光景は、今も脳裏に焼き付いて、昨日のことのように思い出される。