先の大戦末期の昭和20年の1月から3月までの間に、自分で勝手に作った「盡忠会会報」なるものが、古い未整理のガラクタの中から出てきた。
2月1日号が創刊号で、3月の大阪大空襲の直前の3月11日号まで、旬刊として出されている。と言っても、自分で書いて、兄弟で回し読みしたぐらいの手書きのものである。
戦争中で、私は中学4年生、戦争のためにもう学業はなく、学徒動員と言って、毎日工場へ行って、飛行機の燃料タンクの成形のようなことをしていた。しかし、材料は不足し勝ちで、仕事も遅れ勝ち、折角動員されても、中学生などあまり当てにもされていなかった。
その上、私は20年の4月から海軍兵学校に行くことが決まっていたので、気分的にはゆとりがあった。学業はないし、家で勉強に励むような雰囲気ではなかったし、戦時下で遊びに行くこともままならず、時間を持て余し気味だったので、こんなことをしていたのであろう。
最後の5号が3月11日発行となっているので、3月13日の夜の大阪大空襲の直前、まだ委細を知らなかったであろうが、10日の東京大空襲の日に当たっていたようである。内容は巻頭言や、「新兵器特輯」があったりする他、笑話や和歌、エッセイ、便利帳のようなものなど多岐にわたっている。
その中で、必勝道という一文を転載しておこう。当時の一人の少年の心情が分かろう。
”必勝道”
この世界大戦で最後の勝利を得る者は誰か。枢軸か、反枢軸か。これを壱言を以って答れば、それは必勝の信念を堅持し、最後まで頑張り通す者である。(略)必勝の信念がなくては戦には勝てぬ。「負けた」と思った時が負けである。
こちらが三分に対して、向こうの七分の割で戦って居ると思う時が、実は五分五分の戦いで、五分五分の戦いであると思って居る時は、勝っているのである。こちらが困っている時には、相手も同様、あるいはそれ以上に困っているのである。戦は波のようなもので、その波の高い時もあり、低い時もある。そんな一々の戦局を見て、戦争の前途を悲観したり、楽観したりしてはならない。もっと目を大きく開いて見るべきだと思ふ。
昭和十七年頃迄は枢軸国に非常に有利であった。しかし、それからは戦局は逆転し、反枢軸国に有利になってきた。太平洋の戦局についてのみ考える時、我々は何故そうなったか、これをここで深く反省し、いけなかった点を是正し、戦局の再逆転をしなければならない。これをよく考ふるに、その最も直接的にして、且つ顕著なるものは大体次の如くであろう。 即ち、それは
一、敵の軍需生産体制、就中航空機並びに、船舶生産態勢整備の結果、その生産量、就中航空機のそれが各戦線において我が方のそれを完全に圧倒したこと。
一、我が蓄積戦力が緒戦の段階において極度に消耗し、更に広大なる戦線に亘る膨大なる消耗を補給する生産力、就中、航空機生産量が加速度的に不足してきた事
などに起因するとみるべきであろう。
ところが、我々はここに静かに反省すべき事実が存在しているのではなかろうか。我々は軍事的には敵に先制攻撃を加え、あの緒戦の赫赫たる戦果を挙げたが、生産戦には敵アメリカに立ち遅れたのである。
それが今日の戦局となって現れてきたのではあるまいか。それなれば一刻も早く、生産戦においても、敵を破り戦局展開の道を開かねばならぬ。しかも、これは不可能を可能にするような難事ではなく、可能を可能とする程度なのである。こんなことが日本人に出来ぬはずはない。
日本は今危機だ。しかし、英国はダンケルクで敗退し、三十万の英兵は着の身着のまま逃げ帰って来る。連日の如く獨逸の大空襲がある。完全な武装師団は一ヶ師団しかないという有様で、もうダメかという所まできた。それでも英国人は手を挙げなかった。
また、ソ聨も独軍に瞬く間に領土を蹂躙され、レニングラードは包囲され、モスコーも危うくなり、ウクライナは取られ、コーカサスの油田地帯までも危うくなった。レニングラードでは日に数百人の餓死者が出るに至った。それでもなお頑張り、スターリングラードでは、遂に反攻に転じて、戦局を逆転せしめてしまった。
かように、他国民に出来ることが、どうして我ら三千年の歴史を有する大和民族に出来ないことがあるものか。断じて出来る。我々はただ一途に頑張り、戦局転換の神機を掴むのみである。