八月はやっぱり特別な月

 2018年の8月9日のこの欄にも「8月はやっぱり特別な月」という文章を書いているが、毎年8月になると、いやでも戦争のことを思いだす。

 8月6日の朝の原爆による閃光と、それに続くドンという地響き、外へ出て見上げた原子雲は、3月13日夜の大阪大空襲の空一面の火の玉とともに、いつまでも忘れることは出来ない。広島は私のいた江田島からは20キロぐらいの距離であった。

 そして9日には長崎への原爆投下。続いて、15日のお盆の中日には、敗戦で天皇詔書を聞き、「どうにかなる」としか言い様のなかった日本の敗戦が確定し、それまでの自分のすベてが、ガタガタと崩れ始めたのであった。

 それでも、「帝国海軍はまだ戦うぞ」、と叫んだものの、25日頃には、呆然として広島の焼け跡を通り、燐の匂いを嗅ぎ、白と赤の斑点になった裸の被災者に出逢って、夜行の無蓋貨車で大阪へ引き揚げた。

 南河内の家族のもとに引き上げた時には、久しぶりの大阪の夏の緑の山を見て心から「国破れて山河あり」と思ったものであった。蝉が鳴き立てて、これで良いのかとせき立てたが、何をする気力も無くなってしまっていた。

 一身を戦争に捧げようとしていた自分の、全てがなくなり、身代わりの早い周囲の大人たちに無性に腹が立ち、一人取り残されて、深い虚無の淵に落ち込んで行くのをどうしようもなかった。

 それから、もはや76年も経つが、いまだに、まるで昨日のことのように思い出す。私の過去を振り返って見ると、生まれてから敗戦のその時までと、その後は全く分断された違った世界を生きて来た感じである。

 私にとって戦争に敗れたことは、私の内も外も、全てが喪失したことを意味し、以来、私は無神論者になり、今なお、それは続いている。受けた障害から立ち直るには5年も10年もかかったと言えよう。

 私だけではなかろう。沖縄を訪れた菅首相が「僕は戦後の生まれなので戦争のことはよく知らない」と言って顰蹙を買ったが、もはや、戦争を体験した人たちは殆どいなくなってしまった。それでも今なお、夏になれば戦争を思い出す人が増えるようである。

 朝日新聞の歌壇・俳壇を見ていても、戦争についての歌や句は近年減って来ているが、夏になると、毎年数が増えている。あの日本の大陸への侵略から始まった無惨な戦争のことは、何としても子々孫々にまで伝え、人類の歴史で、再びあのような残虐、悲惨なことが起こらないようにしたいものである。