弟の死

 下の弟が死んだ。もう90歳を超えていたので、天寿を全うしたと言ってもよいのではなかろうか。東京に住んでいるので最近はたまにしか会えず、電話で話すぐらいのことであったが、10年ほど前からパーキンソン症候群にかかっていて、最近次第に衰弱して行っていたようである。奥さんと姪に、介護士さんなどにも手伝ってもらって、最後まで家で面倒を見て貰っていたので、それ以上言うこともない死に方だったと思う。

 私の兄弟は、実際には7人だが、上2人は1〜2歳で夭折しているので、赤ん坊の写真でしか知らず、実質その後に生まれた五人兄弟と言ってもよいところであった。ところが、その五人が殆ど皆年子で、一番上が女で、あと四人が男という組み合わせであった。大正の終わりから昭和の初めにかけての出生なので、こんな過密とも言える兄弟も決して稀ではなかったが、今の時代であれば、三人目の年子など、略確実に堕されているであろうから、私などは、今ではこの世に生まれてこなかったところであろう。

 父が撮った昔のパテのフイルムで、バスから兄弟が順に一人づつ、ぽっこり、ぽっこり、溢れるように、次から次へと降りて来る映像があったのが、今も懐かしく思い出される。小学校の頃も、ある時など、6年生から1年生まで、1学年を除いて、どの学年にも兄弟がいるので、担任でない先生まで、学校中の先生が私らの兄弟を知っている年もあった。

 私が3年生になった頃、弟の担任の先生が私の教室に来て、弟がいなくなったが知らないかと尋ねたことがあった。便所まで探したが見当たらないと言うのであわててられた。一体どうしたことかと心配したが、結局、当時のわが家が学校のすぐ側だったので、1年生になったばかりの弟は学校で下痢をして失禁したのを誰にも言えず、こっそり家へ帰ったのであった。

 5人兄弟の一番下であった弟は皆から可愛がられていた。今でも覚えているには、ドイツでヒトラーヒンデンブルグから政権を譲られ、ナチス政権を樹立する頃の話で、当時よく話題に登った、ヒンデンブルグという名前を聞いて、弟が笑うものだから、皆でわざとヒンデンブルグと言って弟を笑わせては、皆で喜んだことを何故か今でも覚えている。それでも一番上の姉が年も離れていたこともあり、弟は一番姉に懐いていたようであった。

 その姉も今や95歳で、老人施設に入って何とか生きながらえているが、2年前までは1年に1〜2度は季節の良い頃に、女房と甥の3人で車椅子に載せて、公園などに連れ出したりしていたのだが、私の足が悪くなり、おまけにコロナが流行って面会すら出来なくなり、この2年近くは、甥を通じて消息を聞くだけになってしまっている。

 5人兄弟のうち、兄と、上の弟は、既に死んでから久しいが、残った三人も、今や皆90を越えているので、いつ死んでも不思議ではない。弟の方が先に逝ってしまったが、もう姉も長くはなさそうだし、そうなると、私が最後の残されることとなってしまいそうである。

 若い頃には一世紀と言えば随分長い気がしていたが、過ぎてみればあっという間に経ってしまった感じである。かっては多かった小出家のメンバーも、我々の次の世代となると、何処も子供は急絞りで少なく、死んだ二人には子供がなく、姉の所が二人、我が家が二人、弟の所も二人と、合わせても6人しかいない。しかも、姉の所が一人死んで、弟の所の男の子が小笠原に住み着いて帰って来ないし、我が家は二人ともアメリカに行ってしまったので、日本には姉の所の甥と弟のところの姪の二人しかいない。

 戦争や戦後の歪んだ時代を経た、この国の社会の傾向どうりに、我が家も急速に人口減少で先細りである。ただ一向にそれを嘆かわしいと思っていないのが幸いである。この国にいる子孫が絶えたところで構わない。家にこだわらず、それぞれに生きている者が、それぞれに精一杯その時代を生きて行って来れればそれでよいと思っている。

 弟が死んで、残った姉も最早95歳で、あと長くはなさそうだし、もう私もいつまで元気でおれるかわからない。今は兄弟より唯一の頼みは女房である。女房が元気で支えてくれる間は何とか生きていたいが、それも分からない。女房より先に逝かして貰う方が良いかなと密かに思ったりもしている。

 弟が死んだ知らせを聞いて、思いついた事を取り止めもなく書き並べた。後々、何かの参考にでもなればという思いである。