障害者の面倒は誰が見るべきか

 近頃は電車に乗る時も、歩行補助器であるトライウオーカーを利用しているので、優先座席を利用している。優先座席から見ていると、杖をついた老人や身障者が多いことに嫌でも気がつく。昔なら完全に電車からシャットアウトされていた身障者が、車椅子などで電車を利用できるようになったことは本当に素晴らしいことである。

 電動の車椅子を自分で操作している人もいれば、家族であろう人に押されて乗ってくる車椅子の人もいる。ホームと車内の段差や隙間があるため、駅員さんがボードを渡して乗降を助けているが、あれも大変な仕事だと思う。

 車椅子で電車を利用しようと思うと、利用者はあらかじめ駅に連絡しなければならないであろうし、それを受けた駅の方ではボードなどを用意してその乗降を助けなければならない。客が降車する駅にも連絡して、同様に助けなければならず、人手にゆとりのない駅員にとっても大変なことだろうと思う。

 しかし、身障者がそういう助けを得ながらも社会に出、電車も利用出来るようのなったことは本当に素晴らしい社会の進歩だと言える。ただし、同じ人間として社会が障害者を支えていく現状は、想像するだけでもまだまだあまりにも貧弱である。

 先日は優先座席に座っていると、臥位にも出来る大きな電動車椅子に高校生ぐらいの脊髄損傷かと思われる男の子を載せ、母親らしき女性が付き添って乗ってきて、車椅子を固定し、母親は私の向かいの優先座席に座った。男の子は座ってジュースを飲んだりしていたが、母親はぐったりした様子で、椅子に沈み込まんばかりであった。

 何かの事故によるものなのか、先天的なものなのかはわからないが、最早治癒の可能性もない両下肢の麻痺ある子を抱えて、お母さんが大変だろうなと思わざるを得なかった。私が見たのはほんの一時だったが、家に帰った後も、あれでは家の中でも、自力での移動は困難だろうし、四六時中援助が必要だろう。お母さんはどうしているのだろうと思わざるを得なかった。

 小さい子供ではなく、あれだけ大きくなった我が子の世話をどんなふうにしているのだろうか。肉体的にも精神的にもお母さんは如何にして毎日を過ごしているのだろうかと、人ごとながら心配しないではおれなかった。

 どれだけ社会的な援助を得てられているのか想像も出来なかったが、あれだけ大きくなった障害児を母親ひとりで看ることは不可能である。例え、いくら社会的な援助があったとしても、母親の負担は想像もできないぐらい大きい。その上に、将来のことを考えれば、十八歳になれば障害児に対する社会的な援助も殆ど打ち切られることになる。

 本人がそれをどうやって乗り越えていくのか、母親がどこまで面倒を見てやることが出来るのだろうか。結局社会が障害児も健康な子供と同じように自立できるように対策をとるべきであろうが、現在それがうまく作動しているとは思えない。

 母親にしてみれば、次第に大きくなり、大人になっていく障害のある我が子と、どう付き合い、どう面倒を見ていくのか、しかも将来大人になった我が子にどのように向き合っていくべきか。たまたま出くわした私が想像するだけでも、今の苦しみばかりか、将来のことを考えても、もうお先真っ暗になるのではなかろうか。

 もうこれは母親に任せる問題ではなく、社会が同じ社会の一員としての障害のある人を同じ人間の仲間としてどう扱っていくか。人間社会の根底を問われている問題であろう。そうは言っても、社会が面倒を見るべきだと言うことはわかっても、現実に生きて一緒ににいる我々に出来ることは殆どない。政府も当てにならない。ならばどうすべきか。答えは出ない、母親の愛情頼みに黙って押し付けて、知らぬ顔ではあまりにも酷ではなかろうか。

 何としても心残りがしてならない光景であった。