もう「銀飯〜銀シャリ」などと言った言葉は死語になっているのであろうか。「銀飯」とは何のことはない。炊き上げられた白米の艶々した外観からきたもので、単なる白米のおにぎりなどを差したものである。
私にはこの銀飯をめぐる忘れられない思い出がある。戦後の餓死者まで出した食糧事情の逼迫していた時代には、まずは何でも良いから空腹感を少しでも和らげれるまで食べられることが目標で、白い飯を腹一杯食べることなど夢の中の夢のような話であった。多くの人の主食はサツマイモであったり、すいとんだったり、雑炊だったりであった。楠公飯といって、予め炒った米を炊くと量が増えるといったような工夫や、水を飲んで腹を膨らませる水腹などというのもあった。
当時は外食をするにも割り当ての外食券が必要だったが、食券があっても米の配給量が少ないので、何処の食堂でも少量の飯しか出なかった。たまたま、一駅先の食堂ではオジヤを食わせてくれるという情報を得て、友人と二人で遠路はるばるとオジヤを食べに行ったことも覚えている。オジヤにすれば量が増えるので、空腹の満たされ方が多少違うのである。
そんな頃の話である。名古屋から大阪へ帰る汽車の中でのことであった。まだ汽車の運行状況も悪く不安定で、どの列車も超満員であった。座席は三人掛けが勧められており、芋の買い出し客が多く、通路は座り込んだ人と、芋を入れたドンゴロスの袋でいっぱいで、網棚の上に上がる人までおり、列車の乗り降りも窓からしか出来ない場合もあった。
もちろん、列車運行状況も悪く、遅くて、関西線で名古屋から天王寺まで約八時間かかり、奈良まで来ると、やれやれ後一時間あまりだとほっとしたものであった。
そんな状況の中での車内でのことであった。もう昼時も過ぎて皆が空腹を感じている頃であった。私の座っている斜め向かいの席に途中から乗ってきた田舎の三人組が、やおら竹の皮に包んだお弁当を出してきて、竹の皮を剥き、おにぎりを食べ始めた。
皆の視線が一斉にそちらに向いたのは当然であった。見ると剥かれた竹の皮から顔を出したのは真っ白なおにぎりであった。皆の目がその弁当に釘付けにされて行った。包の中からは丸々したおにぎりが二つ出てくるではないか。しっとりとした艶のあるギラギラ光ったようなおにぎりである。
我々にとっては、もう長らくお目にかかったことのない白米の艶々したおにぎである。思わず、視線がそちらに向かう。皆がお腹の空いた時間である。その表面のギラギラ光るようなみずみずしい光沢。一眼見ただけで思わず唾きが分泌されてくるのをグッと飲み込んで、まるで宝物を見るように、そのおにぎりに視線を集中させることになる。これこそまさに「銀飯」だったのである。
今なら何でもないことである。海苔にも巻かれていない裸のおにぎりに過ぎないが、当時の飢えた人々にとっては、まるでこの世の宝のように光り輝いていた。もうそれから75年以上も経っているのに、その時の光景は今もまるで昨日のことのようにはっきりと覚えている。もう死ぬまで私の網膜に焼きついたままで消えることはないであろう。
今や炊き上がった白米やおにぎりをどう見ても銀色に光っているようには見えないが、当時のひもじいかった頭には、そのみずみずしい輝きをもった白米のおにぎりの艶のある表面はまさに銀飯だったのである。この衝撃的だった光景は記憶から消えることはないであろう。
本当に飢えた貧しい日本であった。今また「新しい戦前」などと言われてきているが、島国の日本の食料自給率は34%に過ぎないとか言われている。何としても平和を維持しなければ、必ずやまた底知れぬ庶民の飢餓の時代がやってくることを知っておくべきであろう。