東日本大震災が起こってからもう12年経つが、福島原発爆発の後始末は未だにつかず、壊れた原子炉内の核物質はそのままだし、それを処理するために使われた汚染水は溜まりに溜まって工場敷地内に充満し、致し方なく海に放出することとなり、その善悪が議論になっている。
この大震災のおかげで霞んでしまった面影があるが、この東北の震災が起こるまでは、何と言っても、日本の大震災といえば、先ず挙げられたのは関東大震災であった。これは1923年9月1日に起こったことである。丁度今から100年前のことになる。東京が焼け野が原になり、10万人もの人が死んだ大災害なのであった。私の子供の頃には毎年9月1日には関東大震災の事を聞かされた。
私が生まれたのが5年後の1928年なので、私が5歳の時が震災後10年にあたるので、私の子供の頃には、今の東日本大震災の話をいろいろ聞かされたのと同じように、関東大震災についての色々な話をあちこちでを聞かされたものであった。
東京は震源地から大分離れていたのに被害は最も多かったようで、死者の七割が東京で亡くなっているのである。明治時代に政府が買い上げた大名屋敷跡の乱雑な開発や、隅田川の東の埋立地の木造家屋の密集などが災いし、埋立地の揺れは大きく、大火災となり燃え続けて9月3日10時ごろになってようやく鎮火したのだそうである。
実際の地震の震源地は、もっと西南の小田原、熱海あたりで、そこらは殆ど全滅で、丹沢地方は土砂崩れで、谷が埋まり、後々までも大雨ごとに川など氾濫が繰り返されたようである。その他、伊豆半島 伊東あたりでは20〜30米の津波が押し寄せたり、神奈川では地震で土地の隆起や相模湾沖の陥没など地形への影響もかなりあったようである。
子供であった私には全貌などはわからなかったが、人々の噂話は嫌でも聞かされることになった。陸軍の被服廠跡の広場に大勢の人々が逃げて来たが、そこが火の海となって大勢の人が死んだとか、浅草の十二階建ての煉瓦造りの建物が崩壊した、朝鮮人が井戸に毒を投げ込んだという噂が広がり、それに怒った住民たちが多くの朝鮮人を殺したなど、色々な噂を聞かされた。
そして、この震災のため大勢の人たちが東京から逃れ、谷崎潤一郎のように関西に移り住んだ人も多かったという話も聞かされた。
また昭和13年だからもう震災以来15年も経っていたが、東京へ転居した折には、車窓の景色を見て、丹那トンネルを超えると震災のため景色が一変し、それまでのような農村のしっかりした佇まいの家が見られなくなり、バラックのような軽い感じの家ばかりになるのは震災のためだなどと説明されたことも覚えている。
なお朝鮮人虐殺の事件は、最近も福田事件の本が出たり、東京都知事の被害者追悼会への出席拒否など、今なお問題が続いているが、私の子供の頃に聞いた話では、日本人と朝鮮人では外見では区別がつかないので、怒った日本人の集団は、朝鮮人には発音の難しい「五十銭を拾った」などといった言葉を言わせて、ちゃんと言えないものは朝鮮人だとして殺したというようなことであった。そのため日本人でありながら、発音が悪くはっきり言えないばかりに朝鮮人とされて殺された者もいたという話も聞かされた。
今と違い、報道の伝達手段も悪かったので、それこそ酷い流言蜚語が一人歩きして心無い人々を焚きつけ、このような悲惨な恥ずべき事件を起こしてしまったもののようである。その頃の日本では、植民地の一級下の人間として扱われていた在日朝鮮人の苦しみは想像以上のものであったことであろう。永久に消すことの出来ない日本人の恥ずべき行為を忘れてはならない。
関東大震災と聞くと、東京の悲惨な被害状況、大勢の人達の犠牲とともに、無残な朝鮮人虐殺事件を思い出さずにはおれない。それからもう100年も経ってしまったのである。昔から「災害は忘れた頃にやってくる」平素の備えが大事だと言われるが、平素は誰しも忙しく、差し迫っての対策が優先されるので、なかなか十分な備えが出来ないうちに、また新たな災害に見舞われることになりやすい。
東日本大震災では津波だけでなく原発事故まで引き起こしたが、次に何処で何が起こるか誰にも的確な予想は出来ない。東京でも関東大震災後の都市計画で昭和通りなどが出来、ビルの高さ制限なども決められたが、空襲で再び焼け野が原となり、それを生かした折角の都市再建も戦後は食糧事情が長年続いたこともあり、まともな都市復興計画のないまま、乱雑な開発が進んでしまい、今日に至っている。
軟弱な地盤の上に無数の超高層ビルが乱雑に立ち並び、何百万という人が暮らしている湾岸部にいかなる災害が起こりうるか想像するだけでも恐ろしい。果たして大丈夫なのだろうかと心配するのは私の杞憂にすぎないのであろうか。