上からの目線

 社会的地位などからの「上からの目線」は嫌がられるし、誉めたことではない。人は誰も平等であるべきであり、民主主義の理想も自由なだけでなく、平等で公平な社会である。

 そんな難しい話でなく、誰しも経験することであるが、人は物理的にいつもと違う、ちょっと高い所から周りを見ただけでも、何かいつもと違って優越感のようなものを感じるものである。

 赤ん坊や子供が高い高いと言って体を持ち上げて貰ったり、子供が肩車を喜ぶのも違った世界を見れるからであろう。誰しも高い展望台やビルの屋上などに登りたがるのも同じ願望を秘めているからであろう。

 子供の頃に、遊園地のメリーゴーランドで馬に跨った時に、いつもは見上げていた親の視線が自分と同じ高さであることに気がついて、喜んだことを覚えている。引っ越しで、家財を運ぶために来た運送屋さんに、当時は牛車が運んでいたので、その牛の背中に乗せて貰って、すっかり満悦したこともあった。

 また戦時中の中学時代には、淀川の河原でグライダーの訓練を受けたことがある。初級用のグライダーはプライマリといって、模型のゴム飛行機のように、大きなゴム紐で引っ張ってその張力で飛ぶだけのものだが、それでも地上十二、三メートルは上がるものであった。

 僅かそれだけでも、飛ぶと、引っ張っていた下にいる友人たちが小さく見え、いつもと全く違った視線で皆を見下ろすことになり、何か優越感を感じたものであった。今の飛行機の座席から見る景色とは違い、それ程高くなくとも、足元まで全ての世界が見れるので、病みつきになるほど爽快な感じがしたものであった。

 やったことはないが、今なら山の中腹などから飛ぶグライダー飛行も同じような経験を味合えるのではなかろうか。以前、アメリカの友人からインストラクターと一緒に滑空する写真を貰ったことがあるが、きっと似たような爽快さを感じたのではなかろうか。

 また、いつだったか、乗馬クラブのような所で、馬に乗せて貰ったことがあるが、馬の上から見ると、周りを見下し、何か自分が偉くなったような気がしたものであった。

 昔から偉い侍や貴族、王様や将軍などは、皆、馬上の姿が一般的だが、やはり周りの者たちを見下して、優越感に浸れので、自然と喜んで利用されてきたものであろう。

 乗馬でなくとも、例えば屋上に乗る観光バスや、二階付き列車などが好まれるのも、同じようにいつもと違った少し高い所から周りを見下ろすので評判が良いのであろう。

 もう一つ、高い所でなくとも、普通では出来ないような経験をしたときも似たような優越感を感じるものである。戦後間もない頃、今では考えられないが、まだ街を走る車といえば、アメリカ兵のジープ位で、御堂筋でさえ車は殆ど走っておらず、車道を歩行者が平気でに歩いていた。

 当時、親が材木商で、戦後の建設ラッシュで儲けた息子だった友人が、大きなアメリカ製のオープンカーを手に入れ、それに乗せて貰って、御堂筋を今とは反対に、南から北へ走ったことがあった。

 警笛を鳴らすと、前を歩いていた人たちが慌ててまるで蜘蛛の子を蹴散らすかのように、一斉に周囲に逃げ、空いた空間を悠々とまっすぐ走ったのであった。今では想像もつかないひと時であった。

 今のように、渋滞に巻き込まれてイライラするのでは、車の運転もストレスのもとにさえなるが、その時の快感、優越感といったものは二度と経験出来ないものだけに今も忘れられない。

 その時、車に乗せてくれた友人が亡くなった知らせを貰い、遠いありし日のことを思い出したのであったが、時の流れ、時代の変遷をしみじみと感じさせられたことであった。