8月は6日が広島、9日が長崎の原爆記念日で、15日が終戦記念日とされており、嫌でも戦争のことを思い出さされる月である。しかし、今年で敗戦からもう77年も経ったので、最早、戦争の体験者は少なくなり、過去の戦争のことを知らない人が殆どになってしまっている。管元首相が沖縄で「私は戦後生まれなので戦争の事はわからない」と言って顰蹙を買ったことがそれを端的に物語っている。
今では、「日本はアメリカと戦争をしたの?」と聞いた子供は例外としても、昭和16年12月8日に日本が米英両国に宣戦布告して戦争が続き、国中の都市が焼け野が原になり、昭和20年8月15日に無条件降伏したことすら知らない子供までいるそうである。
無理もない。昭和3年生まれの私にとっては、明治維新や日清、日露の戦争については色々話は聞かされたが、50〜60年ぐらい前のことなのに、遠い昔の暦史上の出来事の様にしか受け止められなかったのだから、戦後もう77年も経って居れば、今の若い人たちにとっては、あの惨めな大戦も歴史の中の一頁に過ぎなくても不思議ではない。
しかし、歴史はその生き証人がいなくなると共に、時代の支配者の都合の良い様に曲げられるのが普通であるから、注意深く調べる必要のあることを知っておく方が良いであろう。
広島や長崎の原爆投下については、多くのことが語り続けられているが、以前にある外国人に指摘されたことは「原子爆弾は勝手に空から降ってきたものではなく、アメリカのB29爆撃機が落としたものであることが明らかなのに、日本人はどうして怒らないのか」ということであった。
戦争中のことだったとはいえ、また、日本も原爆の研究をしていたとはいえ、結果として何万人をも殺すことが明らかな原爆を落とすことは人道に反することである。戦の趨勢は既に決まっていたし、アメリカ兵の犠牲者を減らし、戦争を早期に終わらせるためというのは言い訳にはならない。
原爆の被害の大きさや、その犠牲者への慰霊は毎年行われているが、今なおアメリカの属国で、アメリカの核の傘の元にある日本は、世界的な要望である核拡散防止条約にさえ目を背け、アメリカとの核の共用を唱える者さえいる有様である。
また戦争を語り継ごうと言われるが、戦争があたかも「太平洋戦争」だけであったかのように、あの語り継がれるのは空襲や原爆の被害などのことばかりで、本当の戦争の始まりであった、日本の中国への侵略戦争については、出来るだけ無視を決め込もうとしているかのような姿勢である。日本が犯した加害の問題は出来るだけ避けたいのであろうか。
戦争は昭和16年12月に始まったものではなく、昭和12年7月7日の盧溝橋事件に始まる日中戦争から始められたもので、日本軍が中国大陸を侵略し、援蒋ルート、ABCD包囲網などで中国政府を助けていた米国や英国との矛盾がひどくなり、遂にに「太平洋戦争」となったものである。
更にはもっと遡って、昭和の初めに、既に「上海事変」や「満州事変」「満洲国建設」などの日本の中国侵略あたりがこの戦争の始まりで、この戦争が「14年戦争」ともいわれる所以である。「太平洋戦争」が始まるまでの戦闘はすべて中国大陸への日本の侵略であり、「南京大虐殺」もその間の出来事である。
日中戦争については、当時は戦争と言わずに「支那事変」と言い、毎月7日を興和奉公日と読んでいた。子供心に「戦争」と「事変」とどう違うのだろうと疑問に思ったことを思い出すが、現在ロシアがウクライナ戦争を「特別軍事行動」と言っているようなものであったのであろう。
当時は日本軍は天皇の軍隊、「皇軍」と言われていたが、まだ歩兵、砲兵が主力で、戦車は軽戦車しかない軍隊で、一銭五厘で徴兵される兵士よりも馬の方が重宝がられた時代の軍隊であった。国から遠く離れた大陸の戦では、大勢の兵士を養う補給が一番問題になるわけだが、それが間に合わないので何でも「現地調達」「現地調達」と強調されていた。
「現地調達」と言ってもピンとこないかも知れないが、これは占領した現地で食糧から何から何まで必要な物を調達するということで、必然的に占領地での奪略、暴行、殺人などに結びつくこととなり、多くの残虐行為の元となり、中国人から日本兵は「日本鬼子」と言って恐れられることとなった。
当時の日本はまだ農業国で、家長制度の村社会で、男女差別も当然で、不作の年には貧農は娘を売らねば生活出来ず、遊郭制度も存在していた頃なので、占領地での女子暴行事件等も当然だったし、無辜の住民を拉致してきて柱に括りつけ、新兵に銃剣で刺し殺させて、戦争に慣れさせるためとされたりもした。
これらの話は、単に噂話だけでなく、戦地から帰った兵隊たちが、若さに任せて、勝ち戦の戦地での非日常的な経験を、誰かに自慢して話したくてたまらず、子供にまでそんな戦地での自慢話を話し聞かせたものであった。
おかげで、私が子供の時に、初めて覚えた中国語が、兵隊さんから繰り返し聞かされた「クーニャンライライ」であった。当時の言葉では中国人は「ちゃんころ」であった。
当時の中国はなお近代化が遅れ、西欧やロシアに荒らされ、そこへ日本が割り込んで侵略するような構図であったので、「皇軍」も遅れた軍隊であったにも関わらず、連戦連勝で、徐州陥落、上海陥落、南京陥落などと続き、旗行列、提灯行列などで祝ったが、その裏では百人斬り競争だの、便衣隊の名の下での住民虐殺だの、南京大虐殺を裏付ける話も自慢話として平然と語られていたものであった。
また、中学校では教練という科目があり、その中で銃剣術という、小銃に短剣をつけて、槍のようにして藁人形を突き刺す訓練があったが、古参兵上がりの教官がよく「そんなことでは人は殺せん。こうするのだ」と実地に模範を示し、そのようにやらされたものであった。
当時の日本では、満州にいた関東軍が最も精鋭部隊とされており、日独伊防共協定により東西よりソ連を挟み撃ちする計画が語られていたが、ノモンハン事件で日本軍がソ連と蒙古の連合軍の戦車部隊に大敗を喫し、いつしか南進に変わり、インドネシアの石油を狙い、やがてはアメリカの経済制裁を受けるなどした挙句、太平洋戦争になって行ったのである。
しかし、大戦の始まりは支那事変(日中戦争)であり、全て日本軍が中国本土へ攻め入って行われた戦争なのだから、侵略戦争以外の何ものでもない。そこでの戦争がラチがあかない矛盾の果てが太平洋戦争となったのであり、侵略戦争を始めた加害者としての歴史をも決して忘れてはならない。