アジアの国への日本の負い目

 テレビで松下幸之助が話していた。戦争に負けたら、普通は奴隷にされたり、酷い世の中がずっと続くのが当たり前だが、日本は戦後早々から助けられて、このように復興した。これはたまたま運が良かったためで、これはいつまでも続かない。これから新しい時代に入って行く。そこでこそ、日本の真価が問われる。それに備えて松下塾を作ったのだと言っていた。

 戦後すぐの頃のアメリカのアジア政策は、日本の軍国主義を徹底的に潰し、二度と戦争など出来ない三等国にするというものであった。それにより、まだ蒋介石の時代であった中国に、日本に残っている工場設備などを持って行って移設する計画などもあった。

 ところが、中国で共産革命が成功し、朝鮮戦争が勃発したことで様相が変わった。日本はアメリカ軍の絶好の兵站基地となったのである。遠いアメリカから物資を運ぶより、それなりのノウハウもある日本で砲弾や鉄砲の弾などを作って供給する方がずっと安上がりに済むわけである。

 現在ときめくような日本の企業も、この時代にはこれに飛びついて、全面的に協力し、それが戦後の産業復興の足がかりとなったのである。その頃占領されていた伊丹空港に、どれだけ袋詰めにされたアメリカ軍の戦死者の遺体が運び込まれたことか、今では知る人も少ない。

 この朝鮮半島の人々に莫大な犠牲を強いた朝鮮戦争のお蔭で、日本は荒廃した産業の復興を遂げるきっかけを得たのである。アメリカとしては実際の戦闘にも、日本人をもっと協力させたかったのであろうが、アメリカ主導で平和憲法を作ったばかりだったので、占領政策を一転させたが、すぐには警察予備隊と称した自衛隊の走りを作るぐらいのことしか出来なかった。

 朝鮮半島の人たちには申し訳ないが、日本にとっては幸運だったわけである。尤も、影でアメリカに協力させられて亡くなった日本人のいたことも忘れてはならないであろう。今や政府は憲法改正を声高に叫んでいるが、平和憲法のお蔭で犠牲無しの発展が可能になったことに感謝すべきであろう。

 朝鮮戦争が終わると、今度はべトナム戦争が起こり、ここでもアメリカは沖縄の嘉手納空港をはじめとして、日本を後方基地として使い、当然、日本も協力させられた。通常の武器、弾薬やナパーム弾、枯葉剤などの製造を始め、あらゆる面で協力させられた。

 しかし、この時も平和憲法のおかげで、自衛隊などが直接戦闘には関与するようなことはなくて済んだ。韓国が軍隊を派遣させられ、残虐行為なども起こり、多くの犠牲者が生じたことから見ても、平和憲法があった有難さがわかるであろう。

 戦争で血を流さずに、武器やその他の兵站にだけ関与するほど儲かることはないのである。第一次世界大戦においても、日本の産業界は大儲けをしているのである。ベトナム戦争の時にも、日本は多くのベトナム人などの壮絶で悲惨な犠牲の上に、経済成長を遂げることが出来たと言えるであろう。

 こうしてみると、日本は大日本帝国の時代に台湾や朝鮮半島を植民地化し、中国をはじめ、多くのアジアの国に侵略戦争による多大な損害を与えただけでなく、戦後においても、朝鮮半島ベトナムなどの多くの人々の犠牲の上に、他のアジアの国を差し置いて早く復興し、経済大国になって行ったことがわかる。

 侵略戦争に対する反省や謝罪について「いつまで謝罪するのか」と言った問題や、「今の日本人が謝罪する必要はない」というような話もされるが、こういう歴史的な事実も知って、アメリカに対する卑屈な態度の裏返しのように、アジアの国に対しては傲慢に対処しようというのではなく、過去の負い目も知り、謙虚にアジアの国に向き合うべきであろう。

 戦争を知らない現在の世代の人たちが過去の侵略行為などを謝る義理ははないが、二度と同じようなことを繰り返さない責任は自覚しなければならない。憲法9条のおかげで戦闘に参加せずにすみ、朝鮮やヴェトナムの人々を殺さなくて済んだことは何よりの救いであったが、この経験からも二度と外国で戦うことのないよう憲法を、中でも9条を、守って行くことが大事なことがわかる。

 イソップの少年たちが池の蛙に石を投げる話からもわかるように、加害者はすぐ忘れても、被害者にとってはいつまでも忘れ難いことも知っておくべきであろう。原爆の被害をいつまでも忘れてはいけないのと同様に、侵略の汚点も永久に消えることはないのである。