十二月十三日は何の日か

 十二月八日は太平洋戦争の始まった真珠湾攻撃の日で、今年は80年になるというので、新聞でもテレビでも色々なことが報道されているが、十二月十三日が何の日かと聞かれてもすぐのわかる人は少ないであろう。

 私も知らなかったが、中国の人に教えてもらって驚いた。南京大虐殺の日で、中国では国家公祭日となっているそうである。日本の右翼たちは何とかしてこれをなかったものにしようとして、色々画策してきたが、南京大虐殺は戦後の極東軍事裁判でも明らかにされているし、戦時中の南京在住の外国人の証言もある。その時の映像も残っている。

 当時まだ子供であった私も、南京陥落万歳と言って、旗行列だったか提灯行列だったかを見に行ったし、子供の雑誌に載った中国大陸の地図で、南京に日の丸を書いたことも覚えている。

 当時、二人の将校の100人斬り競争などが新聞を賑わしたし、殺した死体を揚子江に流したが、あまりにも大勢だったので、海軍から陸軍に「死体がスクリュウに引っかかって艦が動けない」という苦情があったという話も聞かされた。

 当時の日本軍は今から思えば、本当に野蛮な軍隊であった。主として銃剣で戦ったような戦争で一方的な勝ち戦だったので、帰還兵たちは自慢したくて仕方がなく、子供にまで前線での略奪や婦女暴行などの自慢話を聞かせていたものであった。そのため、私が最初に覚えた中国語が「クーニャン・ライライ」であった。

 当時の日本軍は補給を軽視し「現地調達」ということを仕切りに言っていたが、現地調達とは占領地で略奪をして自軍を養うことだから、それに絡んで必然的に住民の殺害や暴行なども起こることになる。一般住民もこちらの都合でスパイや便衣隊にされて、殺されることになった。日本鬼子と呼ばれて恐れられていた所以である。

 当時の陸軍では、新兵が初めて戦地にやって来ると、上官が戦争に慣れさせるためと称して、無辜の住民を捕らえてきて棒に括り付け、銃剣で殺害させるようなことが平気で行われていたようである。日本の中学校では、教科で教練という時間があり、生徒が藁人形を銃剣で刺す訓練などもあり、戦争から帰ってきた下士官が指導して「そんなことでは人は殺せん」と怒鳴られたものであった。

 もう戦争を実際に経験した人がいなくなってしまって、戦争の被害については空襲や原爆の記憶が語り継がれているが、日本が侵略した中国や韓国、その他のアジアの国々で侵した加害については忘れ去られようとしている。

 しかし、被害者やその子孫達は、日本人が原爆を忘れないように、日本の侵略によって負わされた被害を決して忘れる筈がない。

 加害者はすぐに忘れるが被害者はいつまでも忘れることが出来ないことは、イソップの寓話「池の蛙に石を投げる子供達」を思い出せばよくわかる。しかし、大都市の空襲や原爆の被害を忘れないのであれば、同時に南京大虐殺も忘れてはならないであろう。

 過去の不幸な出来事は未来に生かすべきである。戦争はどちらの国民にとっても不幸以外の何者も齎さない。戦争は絶対にしてはならない。それが十二月十三日の教訓なのである。