旧日本兵のPTSD

 朝日新聞に、先の戦争で出征して中国へ行った父親について、娘が優しい父で大好きだったが、時に酒を呑んでは豹変(ひょうへん)することがあった。ところが、ある日、父のアルバムをのぞいて、衝撃的な戦場写真の数々を目にして、その原因を知ったと言う様な記事が載っていた。

 あの戦争当時は、まだPTSDという言葉はなかったが、それまで平和に暮らしていた人たちが、いくらお国のため、天皇陛下のためと思っても、突然全く異なった人を殺すのが当然な、残酷な世界に放り出されたら、精神がおかしくなっても不思議ではないだろう。

 当時の日本軍は皇軍などと言われていたが、今から思えば野蛮な軍隊で、日中戦争の時など、内地から召集されて来た新兵に戦争とはこういうものだと慣れさせるためと称して、古参兵が駐屯地の近くの村で住民を適当に捉えて来て、棒にくくりつけ、新兵に銃剣で突き刺して殺させる様なことさえしていたことを聞かされていた。

 まさにこういう写真が父のアルバムの写真だったのである。日常風景を撮った写真の合間に、四枚続きで、男性が数人、兵隊に引き立てられていた。大勢の見物人の前でうつぶせに地面に寝かせられ、頭を台の上に載せられる。兵士が大きな刃物で首を切り落とす。最後の写真は、生首がいくつも転がっていた。異国の服を着た男性たちに、兵士が銃剣を突きつける写真もあったそうである。

 戦地の到着していきなりこんな場面を強要された人はどれだけ酷いショックをけたことであろう。それに、当時の日本軍は「現地調達」と称して補給を軽んじていたので、現地で略奪や婦女暴行などが起こりやすい体勢にあったことも関係していたのであろう。

 それでも「支那事変」と言われていたまだ勝ち戦の頃は、戦線から帰国した若い兵士たちは非日常的な戦地での経験を語らずにはおれず、子供達にまで披露したものであった。私が最初に覚えた中国語が「姑娘 来来」だったことがそれを物語っている。

 ところが太平洋戦争の時代になるとそうはいかなくなる。アメリカの物量作戦に押されて

敗戦に次ぐ敗戦。補給を軽視していた日本軍は戦闘死よりも餓死する者の方が多い悲惨な戦争となり、兵士たちは極限の状況にまで追い込まれる者が多くなったていったのである。誰にも言えない過酷な状況の中では当然PTSDに陥った人も多かったであろう。

 戦後医師になって大学にいた頃には、戦地を経験した医師がまだ沢山いたが、戦時中の自慢話をしたがる人たちと、戦争については決して話そうとしなかった人たちに、綺麗に別れていたことに驚かされたものであった。

 同じ戦争に行っていても、軍医として後方にいた人たちは、非日常的な経験を話さないではおれなかったのに対し、シベリアに抑留されていた人などで、過酷な経験をした人達は完全に沈黙を守り、戦争について決して語ろうとはしなかったのがが印象的であった。

 当時はまだPTSDという言葉もなかったが、あの過酷な経験は多くの人々の精神を破壊し、PTSDを引き起こしたに違いない。この様に、PTSDに侵され、時に凶暴な発作などを起こし、世の中から阻害され、深い悲しみを抱えたまま、誰に語ることもなく、静かにこの世を去って逝かれた人も多かったことであろう。

 正義の戦争などはない。戦争や戦闘は人を悪魔に変える。決して戦争だけはしてはならない。