もう半世紀以上も前のことになるが、娘がアメリカへ旅行した時に、「サーバス」という、相互に泊めたり泊まらせて貰ったりする、民間の国際的な組織を見つけ、それを利用してニューオリエンズで大変歓待されたことがきっかけになって、女房が乗り気になって、我が家もそのメンバーに入れてもらった。
それ以来、我が家にも世界中からいろいろな人が来て泊まり、それを契機に友達になったりしてきた。そのおかげで、我々も中国やヨーロッパなど各地を訪ねた時に、いろいろお世話になった。歳をとって、もう今はやめているが、この「サーバス」のおかげで随分いろいろな国の人々と知り合うことが出来た。
あまり多くの人が行ったり来たりしたので、今では、もういつの間にか忘れてしまった人も多いが、前後不動で、思い出す人のことを拾って書いておきたい。
今も強烈な印象を持って思い出されるのは、生まれた時からのサリドマイドによる両上肢欠損を持った写真家のことである。我が家に到着するまで障害について何も聞いていなかったが、玄関でスリッパを用意していた所、一緒に来た連れ合いに、足でスリッパを渡したので、変なことをするなあと思って、初めて両腕のない障害を知ったのだった。しかし、驚嘆させられたのは、この人は生まれつきの障害なので、子供の時から、それに適応すべく努力して、多くのことを足で代替して出来るようにしていたことであった。
出生時から訓練すれば、人間の足があれほど手の代用を出来るものだと、人間の可塑性に驚かされたものであった。足指を器用に使ってグラスを持ち乾杯も出来たし、ナイフやフォークも扱えた。写真家としても、撮影はカメラを地面に置いて、足でシャッターを切って写すようであったが、立派な写真集まで出しておられた。
彼女が子供の時に一番恐れたことは、寝ているうちに、大人たちが自分を押さえつけて無理やり上肢の義手をつけられるのではないかという恐怖であったそうであった。障害者主体でなく、外から良かれと思って、普通の人に合わせようとすることが、障害者の人権を無視して行われても良いのかという問題を突きつけたもので、大いに学ばせて貰った。
次に思い出したのは、韓国人夫妻である。私たちのをマンションを1週間ぐらい自由に使って貰ったことがあったが、帰ってからびっくりしたのは、飛ぶ鳥は後を汚せずというが、その通り、隅から隅まで完璧に掃除をし、冷蔵庫の中までピカピカにして帰ったことであった。この夫婦とは一緒に箕面へ行って、孔子の論語の「学問のすすめ」の碑を一緒の読んだり、日韓の共通単語について話し合ったことなどが忘れられない。また、敬老思想による振る舞い方も興味深かったし、最後にはおんぶまでしてくれた。
また昔、ウクライナのオデッサから逃げて来たユダヤ人のニューヨークの歯科医は、自分が旅行するのでコンドを貸してくれたが、その時の縁で、今なお現在ニューヨークに住んでいる娘と交流があるようである。
トルコのイスタンブールの男性は、日本に来た時の縁で、イスタンブールの街の中心部に近い自分のコンドを1週間ぐらい自由に使わせてくれたおかげで、トルコ観光を満喫することが出来た。その後も長く付き合ってきた。
また八十八歳だったサイクリストのオーストラリアの元教師の男性は、毎年のように日本へ来てあちこちサイクリングで回っていたが、いつも我が家に泊まり、92〜3歳まで来ていたが、その後オーストラリアで老人施設に入り亡くなられた。歳が歳なので、家に泊まった時、朝の起床が遅かったりすると、女房が大丈夫かなと気を揉んだものであった。
ニュージランドから来た夫婦は帰国後離婚したが、その後、私たちがにニュージーランドに尋ねて行った時には、それぞれが新しいパートナーと一緒に現れて、驚かされたものであった。六人で楽しく会食したのであった。
早期にやってきたフランス人の夫婦は、まだ生きていた父と日本風の座敷で対面し、ノーブルだと言ってくれたし、後日パリへ行った時には、ベルサイユ宮殿を案内してくれ、当時は階段の石と石の接着に鉛を使っていたことを教えてくれたことを思い出す。
その他にも数えきれない人たちが、多くの思い出を残して行ってくれた。イラン人がたくさん日本にやって来てた頃、我が家へやってきて 焼きそば??だったかを器用に作ってくれた男性もいたし、米国への留学の帰途に我が家へ寄って帰国した中国の学者もいた。まだ中国が貧しい頃で、使い古したようなタオルを風呂場で乾かしていたことを何故か覚えている。
またポーランドからの若い夫婦は、後にポーランドへ行った時に、グダンスクからワルシャワまで わざわざ子供を乳母車に乗せて遭いに来てくれた。スロバキアからの訪日客には、ウイーンに行った時、船でブラスチラバまで行って再会したこともあった。
アメリカ人の夫婦で帰国後も長く気候の挨拶などが続いたカプルもいた。思いつくままに書き連ねたが、もっと他にも忘れてしまった人達との出会いもあったと思う。観光で訪れるのと違って、多くの国の人たちと個人的に知り合うことは素晴らしい。こういう「サーバス」のような組織がもっと発展して行ってくれることを期待したいものである。