羽化の途中で死んだ蝉

 

 いつまでも梅雨のような鬱陶しく蒸し暑い日が続いていたが、そろそろ梅雨も明けそうである。それとともにに今年もまた蝉が鳴き始めた。蝉といえば忘れられないのが、羽化の途中で死んだ蝉のことである。

 ある夏の朝、庭に出てみると、地面に近い小枝の上で、蝉が丁度幼虫から羽化して蝉になろうとしているところであった。正に幼虫の背中の殻が割れて、そこから中の蝉が半分体を乗り出して、伸び上がり、もう少しで羽化できる場面であった。珍しいので、じっと見ていたが、いつまでも変わらない、時間がかかるのかなあと思って、繰り返し何度も見たが、とうとうそれから先へは進むことはなかった。

 脱皮の中途半端のところで、既に死に絶えてしまっていたようだった。羽化には時間がかかるため天敵に襲われやすいので、羽化は夜に行われることが多いそうなので、あるいは発見した時点で、既に羽化途中で死んでいたのかも知れない。蝉は数年以上も幼虫として地下で暮らし、何回か脱皮して成長し、やっと地上に出て来て羽化し、蝉となってからは、2〜3週間も経たないうちに死んでしまうのだと言われている。

 この羽化途中であえない最後を遂げた蝉も、せっかく長い間の暗い地中の生活を生き抜き、成長して、やっと地上へ出て蝉となり、懸命に鳴いて子孫を残して、この世を去っていくことになっていたというのに、あと一歩のところで躓いて、死んでしまったのである。命あるものの儚さ、運命の冷酷さ、悲しさを感じ、その映像が脳裏に焼き付いて、いつまでも残ってしまっている。

 自然は蝉を種の集団として育んでいるのである。同じ蝉でも、多くの変異を持った遺伝子と、変化する自然環境などの外的因子に変動させられながら、種を成立させて来ているものであろう。多様性のある多数の存在があるからこそ、環境の変化にも耐えて栄えてきたものであろう。当然そこには大きな犠牲も伴うものである。

 命あるものは必ず死ぬ。しかも、皆が命をまっとうできるわけではない。人生も同じである。夭折する子も、事故や争いで死ぬ者もいる。生きにくい世の中に絶望して死ぬ者もいる。人生人様々である。どの時代に生まれて来たかによっても命は異なる。偶然によって人の命も決まるが、誰のところにその偶然がやってくるかはわからない。諸行無常、天のみが知るである。

 誰も知らない庭の片隅で行われた蝉の羽化の失敗も、無数で巨大な自然の冷厳な流れの中のほんの一滴に過ぎないが、人の定めにあまりにも似ているので忘れられないのであろうか。