九十五歳の夏

 

 今年の夏に私は九十五歳の誕生日を迎えた。私の一生は天皇制の大日本帝国で始まり、十七歳で敗戦による全ての崩壊と消失を経験し、その後はアメリカの従属国家として、国民よりアメリカ優先の政府の下で、78年も暮らして来たことになる。

 最早、地球も人新世の時代となり、資本主義の活動は地球の温暖化ばかりでなく、その環境破壊の限界を越えつつあるようであるが、止れば転ぶ資本主義は最早滅亡に向かってまっしぐらに走り続けざるを得ないようである。

 幸か不幸か、私はこの夏、九十五歳の誕生日を迎えた。この先の命は短い。まさに「大洪水よ。我が亡き後に来たれ」である。それでも「後は野となれ山となれ」と突き放して考えられないのが悲しい。

 そんな私にとって、この九十五歳の夏は消えゆく光の最後の輝きだったのかも知れない。六月にイギリスにいた孫が南アフリカの友達を連れて我が家へ来てくれたのが始まり。七月にはロスアンゼルスとワシントンDCにいる孫が二人、一緒に訪ねてきてくれた。そして九月の初めには上の娘夫婦がニューヨークから戻ってきてくれた。

 もう二十年も前のことになろうか、全員が志摩のホテルで揃った時に、もう皆が全て揃うのはこれが最後になるかもと思ってそう話したことがあったが、幸い、その後も全員一度にというわけには行かないが、それぞれの機会を見ては訪ねてくれたり、こちらから出向いたりして会うことが出来ていた。

 ところが、歳をとると、海外まで足を伸ばすのが億劫になり、こちらに来てくれるのを待つしかなくなってきた。そこへコロナの流行もあり、しばらく途絶えた時期もあったが、今年は皆で申し合わせせたかのように、全員が順に来てくれて私の誕生日を祝ってくれた。それぞれどの組とも一緒に箕面の滝まで行くことも出来た。

 おまけに孫が私を撮って編集したショートムービーが馬鹿受けして、百万人近くもの視聴者をうみ、アメリカのCNBCが取り上げて文章にして拡げる等ということまで起こった。また下の孫は私のカトゥーンを描いてくれたし、上の娘は自作の壺を送ってくれた。

 もうこんな機会は永久にないであろう。喜んで冥土の土産にでもしよう。それに昔だったら一旦別れたら、せいぜい海外の電話で高い料金を払って「もしもし・・聞こえますか? 聞こえますか? zuzzzz・・・・」だったのが、今では時差はあるものの、スマホですぐ近くにでもいるかのように話せるのが有難い。

 それにもう一つ、今年の夏の取り柄は私がトライウオーカーなる三輪の歩行補助器を見つけて、手に入れて愛用していることである。杖歩行では次第に足が遅く、疲れやすくなり、何度も休みを入れないと、長距離は歩き難くなり、毎月の箕面の滝行きも止めざるを得ないかと思っていたのが、このウオーカーを手に入れたおかげで、上に書いたように、また箕面の滝まで人並みに行けるようになったし、日頃の生活でも快適に歩けて重宝していることも付け加えておくべきであろう。