小学一年生の頃の思い出

 私は小学校を3回かわっている。そのことはまた別の機会に書くとして、小学一年生は西宮の建石小学校であった。当時住んでいた宮西町という所は、隣の安井小学校の校区であったが、途中で今の国道二号線(当時の阪神国道)を横切らなければならず、当時は国道線の電車が通っており、車もそこそこ走っていた上、今の様に信号があまりなかったので、危険だというので、姉の時から阪神電車より海側の建石小学校に越境入学していたのであった。

 入学してからの最初の思い出はカラー印刷の教科書であった。二年上の姉の時は、まだ白黒の教科書しかなかったが、私の時はカラーの教科書に変わったのが自慢であった。桜の模様のついた本で、国語は「サイタサイタサクラガサイタ」に始まり、「コイコイシロコイ」「ススメススメヘイタイススメ」と続き、片仮名を先に教えられた。算数の本もカラーで当時の一銭銅貨が並んだ数の勘定から始まっていた。

 建石小学校については、一年生の時だけだったので、思い出はあまりないが、前年度の室戸台風の時に高波に襲われたことがあり、その時の水位の印が校舎の壁に刻まれていたが、確か1メートル位の高さだったかと思うが、自分の背丈より高いのを知って驚いたことを覚えている。

 あとは学校以外のことになるが、甲子園球場が比較的に近かったので、タイガースの試合を見に行ったが、その時、球場の便所で、ばったりクラスメートに出会ったことを何故か今でも思い出す。プロ野球のリーグ戦が始まったのが1936年だが、タイガースが出来たのは35年なので、リーグ戦だったと思っていたが、それ以前の何らかの試合であったのであろう。

 タイガースはそれ以来のファンであり、甲子園球場へはその後も何回ともなく行っているが、当時は球場の他にも阪神パークとして、遊園地や水族館にプールなどが次々に出来た頃で、賑わっていたものであった。少し後のことになるが、プールに生きた鯨を泳がせたこともあったし、何十隻もの模型の軍艦を浮かべて観艦式の真似事が行われたこともあった。

 また西宮戎神社が近かったので、友達と二人で境内にある池の亀を捕まえようとして池の中へ入り、結局捕まえられず、びしょ濡れになって帰ったことがあった。その時誰かに怒られた記憶がないのが不思議である。大人になってから戎神社へ行った時には、おそらく当時とは変わってしまっていたのであろうが、こんな所でよく子供が入って遊んだものかと驚いたものであった。

 当時は西宮の海岸も今のように埋立地などなく、夏は新聞社の海水浴場が作られて賑わい、沖には帆かけ舟が見えた。漁師さんが海岸で地引網を引き上げて鰯を水揚げし、それを子供たちが興味深く見ていたし、その後には、「鰯や鰯」と掛け声をかけて取れた鰯を売り歩いている光景も忘れられない。

 私の思い出の中の香櫨園の浜は、松林があり、砂浜が続いて、静かな波が満ち引きしており、遠くを見れば沖を船が行くといったイメージの場所であった。 それが今では、その海岸の先に人工島が出来て、海は遥か遠くへ退いてしまい、昔の面影は全くなくなってしまっている。