95歳の誕生日

 まさかこの年まで生きるとは思わなかったが、いつしか95歳になってしまった。

 17歳の夏に、日本が戦争に負け、それまで自分が全てをかけて来た大日本帝国が突然消失し、生まれてからそれまで育ってきた全ての世界を失い、混乱した世間の中で、この先どう生きれば良いか途方に暮れ、生を諦めかけたこともあった。後悔先に立たず、もう少しだけ様子を見てからでも遅くないのではという微かな囁きだけが命を繋いでくれたのであった。

 そこから始まったような第二の人生、学び始めた戦後の民主主義をようやく身につけ始めた頃から、世の反動、逆コースとなり、戦後の復興とともに、それに伴う抑圧が始まり、仲間達が皆、大学を卒業するや、いそいそと就職し、企業戦士になっていくのに、再び裏切りを感じさせられたりしたりもしたものであった。

 その後も、いろいろな紆余曲折もあったが、医者になり、忙しく働いているうちにいつしか歳をとり、この歳になってしまった。考えてみると、一人の人生というものは、広大で悠久な時空の中では、ほんの一瞬の一雫に過ぎないものであろうが、私にとっては全てであった。

よくこの歳まで生きて来られたものだが、もうやがては消えていく。

 この一生の間、特別自慢するようなこともなかったが、一つだけ自慢出来るとすれば、それは自分の優れた特質でも、仕事上の成功でもない。言うならば、結婚した相手が素晴らしい女性だったことだったと言えるかも知れない。そのことがその後の人生を支え、今につながる歴史を作ってくれたのであろう。

 多忙だった仕事人生に追われているうちに、瞬く間に歳を取り、生まれた娘たちも自立し、二人とも相前後してアメリカに去ってしまった。気がつけば、もう孫が生まれる年頃になっていた。最初の孫が生まれたのが私の66歳に時だった。これでは孫が成人するまで見届けるのは無理だと思ったものであった。

 それが長生きの報酬であろうか。孫の三人がもう揃って一人前の社会人になった。それぞれ仕事もあるので、皆揃ってと言うわけは行かないが、相前後してやって来て、私の95歳の誕生日を祝ってくれた。こんな嬉しいことはない。長生きはするものだとつくづく思った。

 先にイギリスから来た孫は、私のカトゥーンを描いてくれたし、後でアメリカのLAとDCから来た二人は「95歳の1日」と題したビデオのショートストーリーを撮ってくれたが、それが

何と70万人以上の視聴者を集め、800人以上の書き込みを得、その中で私がアーティストにされてしまったのには驚愕するよりなかった。

 人生の長さばかりは天に任せるよりないが、こんな誕生日は生まれて初めて、繰り返しになるが、やはり長生きはするものである。