何回引っ越したか

 九十余年生きている間に何回引っ越したことだろう。年を取ってから数えてみたことがあり、その時点で28回だったので、あと老人ホームか、病院にでも入って、その後、あの世に行けば、丁度30回になると勘定したことを思い出す。その後、現在地に移っているので、もう後は墓場へ行くだけである。

 色々な引っ越しがあった。子供の頃、西宮から箕面へ越した時には、当時は、家具などは予め木枠で囲んで荷造りし、それらの荷物は今のトラックの代わりの牛車に乗せられて、旧国鉄西宮駅まで行き、そこで国鉄の貨物車に乗せられて運ばれていった。荷物を取りに来た日本通運の人に、牛の背中に乗せて貰ったことを覚えている。

 まだ子供だったので、何も手伝った記憶はないが、引越し自体よりも、その準備である物の選択や整理、梱包などが大変だったのではなかろうか。今のように段ボール箱などのない時代である。電気製品などはなかったので、今より家具類は少なかったであろうが、種々雑多なものを運べるように、まとめるのが大変であったことだろうと思う。

 布団は布団袋というものがあり何枚かの布団をそれに入れて運んだようである。衣装類は柳行李や茶箱、長持ちなどに、食器類は割れないように、一つ一つ新聞紙などで包んで木箱に入れ、書籍類は適当な大きさに紐で縛り、金物類は何やかや一緒に大きな風呂敷に包んだりしたのであろう。ビール箱やみかん箱などの既成の木枠が小物を入れるのに役立っていた。

 ただこう雑多な荷物を纏めてみても、嵩高くなるばかりで、大きさも、形も、重さも、扱い方もバラバラな物の集まりを、荷車に乗せたり、貨車に積み替えたり、また下ろして荷車に移して配達するなど、今では考えられないような効率の悪い仕事だったのだと思われる。

 次の大きな引っ越しは箕面から東京であった。その時の方が遠方なので、引っ越しも一層大変だったであろうが、おそらく、殆ど全ての荷物は引き越し屋さん任せだったのではなかろうか。子供だった私は当時の引っ越しの様子については全く覚えていない。この時に覚えている事は、家族全員で汽車に乗って東京へ移ったことだけである。昼間の移動だったので、おそらく当時のツバメで行ったのではなかろうか。

 当時の汽車は一等車、二等車、三等車の別があり、最後尾の一等車は展望車と言って最後部が展望台になっていた。当時の車両には全て窓の下に線が引かれており、一等車は白、二等車は青、三等車は赤であった。それによって当然座席や中の構造も違っていた。二等車の背凭れは布張りだったが、三等車は座席のクッションも悪く、背中も直角の板だけであった。

 旅行の詳細はもうはっきり覚えていないが、豊橋から陸軍の将校が隣に乗ってきて、我々男の子が4人もいたので、浜松で降りるまで、ずっと何やかや話してくれたことだけは今も覚えている。我々は2等車で行ったようである。というのも当時の軍人は将校は2等車、兵卒は3等車と決められていたからである。

 東京では、当時の芝区で2ヶ所と目黒区で1ヶ所に住み、その後、また大阪へ戻り、箕面に住んだ。1941年に中学に入ってから、今度は大阪市内の天王寺公園の近くに移り、一時桃谷の方に移ったが、またすぐ天王寺に戻り、そこで空襲にもあったが、幸い被災を免れ、一家は戦争末期には富田林の方に疎開したが、私は江田島海軍兵学校へ行った。

 戦後は一旦富田林に復員し、やがてまた天王寺に戻ったが、翌年には旧制高等学校であった第八高等学校に入ったので名古屋へ移った。それも初めは高校の疎開先であった知多半島の先の海軍の基地跡の河和の寮に入り、そこが火事で焼けて、名古屋に学校が復興するとともに、名古屋の瑞穂区汐路町にあった、遠い親戚の家に下宿し、学校を卒業とともに、また天王寺に戻った。

 以来天王寺にいたが、若い時代では、一番長く住んだのではなかろうか。大学時代もずっとそのままだったし、卒業して医者になってからも、結婚するまでずっとそこに住んでいた。

 結婚後の新居は住吉区の府の住宅公社の団地だったが、初めは風呂のない一階の部屋しか空いておらず、そこに一旦入居し、同じ団地のすぐ向かい側の部屋が開くのを待って、そこへ移った。今度は四階であった。新居に入った時には、女房の嫁入り道具などもあり、荷物の搬入には義父がトラックに乗って手伝ってくれたりしたが、すぐ向かい側の棟への引っ越しの時は、引越し屋に頼むまでもないと考えたものだから、まだ子供だった甥たちにまで手伝って貰って、一日かかって、何回ともなく、狭い階段を登ったり降りたりして、四階まで大きな荷物を運び上げるのに閉口したものであった。

 その後は、今度はアメリカに行くことになって、一旦親元の天王寺に引っ越してから、アメリカへ行くことになり、アメリカでも、デアラウエア州とニューヨークで三ヶ所、居所を変えることになった。ただし、アメリカの時は荷物が少なかったので、引き越しには問題はなかった。

 二年後に帰国したが、今度は、留守のうちに引っ越していた親元の池田に一旦戻り、次いで住吉区へ、更には千里のニュータウンが出来て、北千里へと慌ただしく繰り返し住所を変えた。引っ越しばかりしていたものである。

 その頃になると、もう引っ越し慣れしているためか、いつの引っ越しの時のことか忘れたが、引っ越し屋さんに褒められたことさえあった。生来、気が早いものだから、引っ越し屋さんが来る前には、もう殆どの家具や書籍、家具類などは、既にパックも終わり、殆どそのまま搬出可能な状態に準備が整っていたので、それを見た引っ越し屋さんの曰くに、「皆さんこうだと助かるんですがね・・・。大抵はこうは行きませんね。『奥さん。もうこれだけでっか』と言って押入れを開けたら、中はまだ何も手をつけていない日常生活そのまま、といったことが多いんですよ」と。

 こうも引っ越しを繰り返すと要領も良くなるが、生活も忙しかったので、平素の整理も怠りがちで、手元にガラクタが忽ち溜まり、整理する前に次の引っ越しがやって来て、引っ越しを契機にそれらをの整理をしたら良いとは思いつつ、その時間や暇のないまま、殆ど整理出来ないまま、全てを引っ越し先まで運ぶことになってしまうことになる。

 何度引っ越しても同じことの繰り返しである。引き越し先でも、要る物はすぐに出して使うことになるが、不要不急の物は忙しいので後で判断しようとして、取り敢えずは奥の方へ閉まっておくことになる。しかし、一旦閉まわれたものはそのままとなり、次の引っ越しの時には、また同じことを繰り返すことになり、不急なものは日の目を見ないまま、押入れの奥から次の家の押入れの奥へと移動を繰り返すことになっていたようである。

 北千里には比較的長く住んだが、その後も四国へ行って2回引越し、北千里へ戻ってから、今度は池田の呉服町を経て、六十歳を過ぎて現在の室町に家を建てて、漸く落ち着き、以来ずっと室町に定住していることになる。これまでに住んだ多くの家には、それぞれに色々な思い出があるが、若いうちは本当によく引っ越したものだとつくづく思う。

 引っ越し貧乏などと言う通り、引っ越しが多いとどうしても、重厚で落ち着いたような家具などは身につかない。現存ある家具類は殆どが歳をとって落ち着いてから購入したものである。若い時からのものは安物ものばかりで、皆傷だらけだが、長年愛用してきたので捨てられないで残ってきた物もある。

 結婚して以来のダブルベッドはもうボロボロといっても良いが、マットレスだけ変えたが、未だに愛用している。もう60年を過ぎていることになる。本箱の類も、大分入れ替わってはいるものの、今でも随分古い、結婚以来のようなものまで並んでいる。

 歳をとって仕事を辞め、時間のゆとりが出来てから、断捨離だとかいって、随分古い物を整理したが、同じ所に長く住めば住む程、自分にしか価値のないガラクタが溜まってくるものである。生活の便利さから、また呉服町のマンションに移り住もうかとも考えているが、年をとるほど、何をするのも億劫になる。

 もう一度引っ越すか、最後までこのままで行くか思案のしどころであろうが、いずれ、あの世へ行くまでに残された時間はそれほど長くはない。どうなることやら・・・・。

我が住居の変遷

1 兵庫県武庫郡大社村森具

2 西宮市宮西町六番地

3 大阪府豊能郡箕面村牧落百楽荘259−4

4 東京市芝区白銀今里町85

5 東京市芝区白銀今里町77

6 東京市目黒区洗足1334

7 大阪府豊能郡箕面村桜井3番通り3丁目

8 大阪市天王寺区茶臼山町111(1)

9 大阪市天王寺区堂ヶ芝町81

10 大阪市天王寺区茶臼山町111(2)

11 広島県江田島海軍兵学校大原分校

12 大阪府南河内郡赤坂村川野辺

13 大阪市天王寺区茶臼山町111(2)

14 愛知県知多郡河和町第八高等学校寮

15 名古屋市瑞穂区汐路町1−6

16 大阪市天王寺区茶臼山町111(2)

17 大阪市住吉区山坂町2丁目(1F)

18 大阪市住吉区山坂町2丁目(4F)

19 大阪市天王寺区茶臼山町111(2)

20 128Bradford St, Dover, Delaware

21 30-79,49th.St.,Woodside. L.I.C.3,  N.Y.

22 池田市室町7番通り7

23 大阪市住吉区遠里小野町125

24 吹田市藤白台3丁目5A27,204

25 香川県三豊郡高瀬町比地中1447

26 丸亀市城東町2丁目10−13

27 吹田市藤白台3丁目5A27−204

28 池田市呉服町1−1−909

29 池田市室町8−20

30 Grave yard ??