野口英世の伝記

 子供の時に、誰からだったかは忘れたが、野口英世の伝記を読みなさいと言って渡されたことがあった。当時の野口博士は、日本人として細菌学の領域で、黄熱をはじめ梅毒その他多くの伝染病の病原体を発見し、世界的にも有名で、ノーベル賞の候補にもなった人で、日本の誇りだとして崇められてさえいた。

 そんな偉人だから、その伝記でも読んで少しはそれにあやかりなさいというのがその伝記を勧められた動機であったのであろう。恐らく、子供用に書かれた本だったのであろうが、東北の何処かの農家の生まれで、まだ赤ん坊の時に、ハイハイして部屋の中の囲炉裏に落ちて手を火傷し、左手だったかが開けなくなった後遺症を残したとかの生い立ちから始まり、内容はもうすっかり忘れてしまっているが、何でも、頭が良くて勉強熱心だったなどなど素晴らしいことばかりが書き連ねてあったような気がする。

 成人後の医学的な功績なども書いてあったのであろうが、子供にとってはそんな功績のことは判らない。それより、あまりにも良いこと、優れたことばかりが続いてあって、人間離れしていたのであろう。こんな偉い人も普通の人のようにトイレにも行くのだろうか、泣いたり、怒ったり、喧嘩したりしたことはないのだろうかと、疑問に思ったものであった。あまりにも現実離れしていて、読み続ける気がしなくなり、途中で読むのをやめて、放り出してしまったことを覚えている。 

 著者は良かれと思って褒めあげたのであろうが、度が過ぎて、人間離れをしてしまったのであろう。ここに書かれた人物は自分と同じ人間ではない。他所の世界の人か獣かというような感じで、親しみを感じることが出来なかった。

 そればかりでない。これがきっかけとなって、以来、偉人の伝記物などは一切受け付けなくなってしまった。専門的な領域ではきっと偉い人だったのだろうと思いつつも、現実の人間世界とは別のような感じになってしまったからであろう。以来、伝記アレルギーのようなもので、どんな人の伝記も読まなくなってしまった。

 そうかと言って野口英世の学問ばかりでなく、その人柄などをも後になってからも評価しないかった訳ではない。野口博士については、身近なこんな話もある。

 箕面の滝道の途中に野口英世銅像が建っているが、その謂れは興味があるものである。もう戦前の古い話であるが、野口博士が帰国して各地で講演会などをした時のことである。ある日、大阪で講演会があり、その後の歓迎会が箕面で開かれたそうである。

 会場は滝道の丁度半ばの所にある、今もどこかの会社の保養施設として建物が残っている「琴乃家」?だったそうである。野口博士はその夜、歓迎会の後、母親と一緒にそこに泊まることになっていたらしい。母親が早く到着し、博士は講演会のために、遅れて到着したそうである。

 親子が一緒になって夕食をし、一晩を共にした時の様子を見ていた琴乃家の女将が、博士の親想いの行動に感心し、すっかり博士に傾倒したらしい。博士が没後に、何とか博士の記憶をとどめたいと銅像建立を企てたが、そのうちに時代は次第に戦時に向かいのびのびとなり、戦後になって、ようやく念願が叶ったということらしい。

 そんなことを知ると、きっと野口博士というい人は、細菌学者としての功績だけではなく、人としても女将にこれだけのことをさせただけの人格を持った人間だったのであろうと思われる。箕面に行かれる機会があれば、ぜひ琴乃屋の左の山手に立っている野口英世銅像をも見てほしいものである。