西欧の価値観は果たして普遍的で絶対か?

 最近新聞などではしきりに民主主義国家と覇権主義国家といって、アメリカを盟主とするG7の諸国家などとロシアや中国を峻別する分類が行われ、前者こそが人類の普遍的価値を持った国であり、後者は誤った矯正されるべき、あるいは撲滅されるべき存在だというような言い方が広く行われるようになってきている。

 それでは、アメリカのいう普遍的価値とは何であろうか。自由、民主主義、法の支配、主権国家体制、市場経済などが挙げられことが多いが、本当にアメリカは普遍的価値を体現しているのであろうか。単に自己の価値観の押し付けに過ぎないのではという疑問も湧く。

 民主主義と言えばすぐにアメリカが代表のように挙げられるが、アメリカは本当に民主主義の模範の国なのであろうか。アメリカの実情を見れば、5%にも満たないごく僅かな大金持ちが、全ての国民の半数以上の持つ以上の金を握るまでに貧富の差が極端に激しく、人種差別も強く、浮浪者や麻薬中毒者も多く、銃の保有は自由で、犯罪も多い。

 教育による階層化も激しく、不平等、分断もますます強くなっている。勝者の自由はあっても、人々の平等な権利は認められていない。社会保障は甚だ劣悪である。民主主義は消えて行きつつあるといっても良さそうである。

 その実質は民主主義と言えるものではなくて、リベラル寡頭制ではないか。強者の自由であっても、弱いものの自由は奪われているのである。国内だけでなく、他國への侵略 謀略 偽善さえ繰り返している。

 西欧では、十七世紀宗教戦争後の混乱の中で、宗教的権威から世俗的な政治主権が自立して、国家主権を生み、多くの国で民主的な政治が確立し、個人の権利、経済活動の自由が保障され、民族を基盤とした国民や市民社会が形成された。 

 アメリカはそのヨーロッパの啓蒙主義を受けて、開拓者たちのための個人の自由、平等、人権、法の支配などの理念を引き継いだが、それはあくまでも開拓者の自由であり、奴隷や原住民たちを含む全員の平等を意味する全国民の民主主義ではなかった。

 この彼らの作った連邦政権が帝国的原理により、アメリカ帝国的な世界を形成してきたのである。従って、アメリカのいう普遍的価値とは強者の自由と民主主義であり、平等が抜け落ちた民主主義と言わざるを得ない。

 各国の歴史や文化、その発展段階にによって社会のありようが異なるのが当然であろう。それをあたかも普遍的な自由・民主主義であるとして自己の主張を世界に押し付けようとするのがアメリカの特殊性である。

 アメリカの独立宣言「すべての人は平等に生き、生命や自由、幸福の追及を含む不可侵の権利を与えられている」という中には黒人奴隷や先住アメリカインディアンは含まれていない。

 法秩序のもとでの社会状態とは、人々が威力や暴力ではなく、法秩序のもとで暮らしていることである。法律は富裕層に有利になりがちだが、社会状態は本来、身体や力の不平等を法的平等へと転じることで個人を守るものとされてきた。

 民主主義の自由はあっても、持てる者の自由で、強者の自由はあっても、全ての人の自由はあり得ない。大衆は人種差別のような社会的不自由を強いられ、経済的に搾取され貧困に追いやられ自由を奪われている。社会的にも、経済的にも平等はますます否定されていく。

 博愛も対等な博愛ではなく、強者の恵み、お情け、罪滅ぼし、偽善に満ちた贈与、貢献、援助であり、自由、平等、博愛は上部階級の絵空事、偽善である。

 このように、アメリカのいう民主主義は強者の民主主義に過ぎず、それが平等を求める世界の人々の普遍的な価値とはとても思えない。世界の全ての普通の人々が相互に助け合って「能力に応じて働き、必要に応じて得られる」生活こそが普遍的な価値であり。目指すべき民主主義ではなかろうか。