九十五歳ともなれば

  九十五歳ともなれば五感も鈍れば、体も衰える。

 歩くのに足が遅くなっただけではなく、疲れやすい。何度も休まないと長道は歩けない。昔は私が先で、女房が後からついて来ていたが、今はいつも女房の後から、次第に距離を空けられながらついていくのがやっとである。

 その上、体のバランスを取るのが不味くなって、転び易い。何度転倒したことか。数えきれない。救急車で運ばれたことも一度ではない。幸い、これまで一度も大したことでなかっただけである。

 杖をついていても、転ぶものである。転倒して杖が口にあたり、入れ歯を壊してしまったこともある。それでも生きている限りは歩かないではおれない。杖が危なければ、歩行器となる。歩行器の方が歩くにはずっと楽である。ただし、坂道、段差、電車などの乗り降り、階段やエスカレーターなど杖より障害物も多くなる。

 足だけではない。五感の衰えが避けられない。まずは匂いがわからなくなる。以前は花が見えなくても、臭いから金木犀の存在が判ったのに、今では、地面を真っ黄色にしているのに、匂わない。うなぎ屋やカレー屋の前を通っても何の匂いも感じなくなってしまっている。

 目は老眼だけではない。左目は60代になった黄斑浮腫に次ぐ変性で、歪んでしか見えない。老眼の左隻眼だけで見て来たようなものである。片目なので遠近が判り難いし、見違え、読み違えが多くなる。昔はあれ程、夜の星を見て夢を膨らましたものだったが、今の夜空には月と金星しか見えない。もう一つあると思えば飛行機。それに月も重なって二つに見えるし、平行線も歪んだ見える。

 耳も聞こえ難くなり、テレビも近くに行ってボリュームを上げないと聴き辛いし見え難い。聞き間違いが多くなるし、他人同士の会話について行けない。高音の聴取が悪くなるので、ソプラノや高音の演奏は惨めになる。女房の言葉も始終聞き直さなければならない。

 味覚は元々鈍感の方なので、歳をとったからといって味に苦しめられることはないが、やはり鈍くなっているのであろうか。好きなものしか美味しさがわからない。触覚については自分では何も変化に気づいていないが、自分では分からないだけであろうか。

 五感が衰えれば、体の生理機能も当然年並みとなる。先ずは疲れやすい。若い時は徹夜もいとはなかったが、今や夜は7時になれば眠くなって、体がぐったりしてベッドで横にならなければ起きておられない。その代わり、朝は3時半には目が覚めて、もう起きないではおられい。その代わり、8時頃には30分ばかりのナップを取らなければいられない。

 食事だけは3食きっちり食べているが、もちろん食べる量は減っている。若い時は小さいのによく食べるなあと言われてこともあったが、今では夢のような話である。体操をし、散歩にも行くようにしているが、次第に行動範囲が狭くなってきている。昔は電車に乗って遠方まで出かけることが多かったが、次第に疲れやすく、家から歩いて行ける範囲になって来ている。

 夜はまあまあ眠れるが、2回も3回もトイレに起きなければならない。排尿には時間がかかる。便通は良い時も悪い時もあり、肛門の締まりが悪くなって、時にしくじる時もある。涎れを垂らしたり、唾を誤嚥して咳き込むこともある。それでも、まあまあ何とか普通の生活は出来ている。

 それより何より、3食作って貰っている賄い扶持なのが有難い。女房に頭があがらない。感謝、感謝である。せいぜい私のする家事といえば、食後の食器洗いや雨戸の開閉ぐらい、あとの時間はパソコンの前に座って、メールなどを見たり、ブログを書いたり、撮った写真を加工したりして遊んでいることが多い。

 一日があっという間に過ぎてしまう。若い時のように多くの仕事をこなして忙しいからではない。全てに反応が遅く、やることなすことのスピードが遅く、効率が悪いからである。内容は貧弱でも時間だけは経って行く。

 一応欠かさず日記をつけているが、昨日、日曜日だったと思っていたら、もう明くる日が土曜日だと知って驚かされるようなことが続く。歳と共に加速度がついて、時間がどんどん速く過ぎ去って行く。いつまで続くかもう全て天に任せてある。

 悠久の自然の中でのほんの一瞬の命だったが、この世を垣間見せて貰ったことを感謝している。