以前にも書いたが、コロナの流行る直前の2019年の秋に突然、脊椎管狭窄症にかかり、一年ばかりは、シルバーカーを押したり、杖を頼りに休み休みしか歩けなかった。その後、幸い何とか休まなくとも、かなり長距離でも歩けるようになったが、歩行速度が極端に落ち、ふらつき易いので、念のために、杖と言わずにステッキと言っているが、多分にそれに頼って歩いている。
ところが、丁度コロナの流行と重なり、外出もままならなかったので、年齢のこともあり、せっかく歩けそれにるようになっても、どうしても家に止まるか、家の近くをウロチョロするぐらいの生活が続き勝ちになったので、折角歩けるようになったのだからそれを維持して、コロナが落ち着いたらまたあちこち行けるようにしておきたいと思い、なるべく毎日5千歩から1万歩ぐらい歩くようにしてきた。
もちろん、以前の様にさっさとは歩けない。女房と一緒でも、以前ならいつも私か先で、女房を引っ張るような感じだったのが、今では、いつも女房が先になり、後からそれを追いかけるような格好になってしまっている。大勢の人の波の中では、人の流れについて行けないし、女性や子供にすら追い抜かれる。
それでも慣れて仕舞えばそれなりに楽しく歩けるもので、以前のように急ぎ足で歩いていた時には見落としていた、路傍の景色や草木に目を取られることも多くなった。おかげで路傍の草木の名前も大分覚えることが出来た。
家の近くに猪名川が流れており、河川敷が整備されているので、その両岸の、上流、下流の遊歩道や、五月山の麓の公園、植物園に展望台、少し離れた所の池のある公園、それに幾つもある古墳、お寺や神社などなど、古くから開けていた土地なので、いくには所には事欠かない。今日はここ、明日はここと、順繰りにあちこちを訪れることにしている。
ただし、昔は健脚と言われた方で、かなり遠い所まででも平気で歩いて行ったものだったが、最早そういう訳にはいかない。脊椎管狭窄症の悪かった時の様なことはないが、昔と比べると極端に疲れ易くなってしまった。昔なら休まずの平気で行けた所も、今では間に休みを入れないと行けなくなってしまった。
なるべく公園やベンチなどのある所で休む様にはしているが、途中でヘトヘトに疲れてしまった様な時には、道端の低い石垣に角とか、手すりの様な所にでも腰を下ろして、しばし休憩しなければならなくなることもある。
昔なら格好が悪いからと我慢するところだが、今ではそうも言ってられない。疲れたら外見などに構っておれない。兎に角どこかに腰を下ろして休みを入れないと、もはや一歩も歩けないことになる。
毎朝散歩に出る時、日によって違うが、足の軽い時も、そうでない時もある。それによって行き先も考えるのだが、行きたい気持ちと体の具合がいつも釣り合うわけでもない。それこそ「往きはよいよい帰りは怖い」で、帰りにはもうヘトヘト、ヨロヨロになって、やっと家に辿りり着く様なことにもなる。
八月は敗戦の月でもあり、戦争のことがテレビでも新聞でも多く出るので、ふと、インパール作戦の話を思い出す。あの戦いは負け戦で、戦い疲れた兵隊たちが、隊伍を組んで何処までまでも、何処までも退却したのである。食料もなく、水もない。疲れ切った体に鞭打って皆と一緒について行かねばならない。皆からはぐれたら、もう何もない荒野に一人放り出されて餓死するよりない。ヘトヘトに疲れ果てていても、もう歩けなくても、無理をしてでもついていかないと、生きて帰れなかったのである。
どんな気持ちで歩いていたのであろうか。体は弱り切ってもう限界でも、生死の分かれ道、諦めるに諦めれれない心情は想像を超えたものであったに違いない。こうして多くの人たちが遠い辺地で死んでいったのであろう。
それに比べることなど出来ないが、こちらも足がもうヘトヘトになって、すぐにでもそこらに座り込みたい様な時に、ふとインパール作戦が頭に浮かび、死んだ兵士たちの思いを忍び、それでも、ここはインパールではない。もう少し頑張れば、家まではすぐだと、自分に言い聞かせて、何とか休まずに家に帰り着くことになるのである。