杖かステッキか

 杖というと老人を思い浮かべる人が多いであろう。高齢化社会の日本では、どこへ行っても杖をついたり、シルバーカーを押したりしている老人を見かける。

 杖は老人の友のようなものだが、若く見せたいためか、時々転ぶようになっても、杖を嫌がる人もいる。若い人でも、脚が悪ければ当然杖のご厄介になる。杖をついた方が安全なら、年に関係なく、杖のお世話になるとよい。

 私は転ばぬ先の杖で、早くから杖をついているが、私はなるべく杖とは言わずに、ステッキと言っている。「杖をつく」「杖に縋る」「命の杖」「転ばぬ先の杖」「杖とも柱とも」など、杖といえば、どうしても年寄りくさい感じがするが、ステッキといえば、一寸はおしゃれな感じになる。

 この頃の人はもう知らないだろうが、戦前には、ステッキがおしゃれの象徴だった時代があったのである。チャップリンのステッキは有名だが、貴族や金持ち階級、それを真似たハイカラ族達は、ファッションとして、ステッキを抱えてポーズを取ったり、散歩したりしたものであった。政治家でも、イギリスのチエンバレン首相のステッキ姿はよく知られていたし、日本でも、当時の伊達男たちは競ってステッキを脇に抱えたりした時代があったのである。 

 私とステッキとの関わりの歴史はこうである。まだ60歳代の頃。当時はせっかちで、いつも足速に歩いていたが、ある時、地下道へ降りる階段を走るように降り始めた瞬間、突然後ろからふくらはぎを蹴られたかのような激痛を覚え、歩けなくなった。右の下腿のふくらはぎの肉離れであった。しばらくじっとしていた後、足を引きずって何とかその場を離れることが出来た。

 整形外科に受診する程のことはないし、帰り道だったので、阪急百貨店に寄って、ステッキを購入することにした。中年の女性店員が「楓の一本木が軽くて丈夫なのでおすすめ」と勧められてそれを購入、1週間ほどそのお世話になった。その後は不要になったが、歳をとればまた必要になるだろうと、傘立てにそのまま置いていた。

 案の定、七十歳を超えた頃から時々何かに躓いたりして、歩行中に転倒することが時々見られるようになり、また山歩きの時などにもステッキがあると助かることがあるので、どこかへ出かける時には、そのステッキを持ち出すことが多くなっっていった。

 ところが、それまで持たなかったものを急に持ち出すと、何かの時に忘れるものである。入れ歯然り、老眼鏡然りである。このステッキも何度忘れたことであろうか。念の為に持っていったような時には、なくても困らないものだから、つい置き忘れることになる。

 先ずは、出かける時に持って出るのを忘れる。ステッキの初心者の頃は屡々起こる現象である。初めのうちは、まあいいかと諦めることも多かったが、依存度が大きくなるにつれて、面倒でも取りに帰らねばならなくなる。次いで、ステッキを置いて何処かへ入った時、料理屋や何かの会場などでもあるが、一番多いのは公衆便所に入った時であろう。一旦手を離してしまうと、つい忘れてしまうのである。

 兵庫県西脇市の美術館に行った時には、トイレに置き忘れてそのまま帰ろうとして、美術館の建物から出ようとした時に、美術館の係の人が来た時にステッキをついていた姿を覚えていてくれて、「杖をお忘れでは」と声をかけてくれたおかげで、アチコチ探して、トイレで見つけたことがあった。

 また、京都嵐山の化野念仏寺へ行った時には、料理屋の入り口で置いて座敷へ上がった後、すっかり忘れて、そのまま嵐山の渡月橋あたりまで帰ってきてしまった。最早そこから引き返すわけにもいかないので、電話で確かめておいて、何日か後にまたわざわざ取りに行くことになったこともあった。、

 こうして長い間使っていると、自分の分身のような愛情のようなものが湧いてきて、今では何本もステッキがあるにもかかわらず、自然とこの同じ楓のステッキしか使わないことになってしまっている。

 私はいつの間にかステッキ持ちで、玄関の片隅の傘立て周辺には、もう一本の殆ど同じようで、少しだけ長い木のステッキ、戦前からの真っ直ぐな木製で握り手のトップだけが丸くなったおしゃれ用ステッキ、亡くなった友人の娘さんから形見分けとして貰ったもの、上部が左右に開き椅子として利用出来るコントラプションもの、写真の一脚として使えるものなど、ステッキの種類には事欠かないのである。その他にも登山用のピイッケル、ノルディクのダブル・スティクスも置いてある。

 そんな中で、最近のことであるが、スーパーで買い物した後 買い物を袋詰めする時にステッキを床の落としたが、買った商品に気を取られて、ステッキのことなどすっかり忘れってしまい、いざ帰ろうとするとステッキがない。それまでは買い物カートに頼っていたので気づかなかったが、それがなくなると、最近ではステッキがないと心細いので、気がつくわけである。 

 慌ててあちこち探してみたが見つからない。忘れ物係に聞いても届いていない、女房はもう諦めて帰ろうと促すが、あくまで探すと、袋詰めの台の下に落ちているのが見つかった。買い物客が多いので、隠れて見えにくかったのであった。

 もう何十年んも一緒だったステッキである。他ので代用出来るといっても、気持ちはそうはいかない。迷子になった子供が帰ってきた時のように嬉しかった。こういう色々な経過を経るごとに、ますます離れ難くなっていくばかりである。

 これだけ長く使っていると、当然先につけたゴムキャップもすり減って穴が開き、木が地面を直接打つようになるので、キャップを付け替えねばならない。振り返ってみると、何年か前に梅田の東急ハンズで付け替えてもらったことがあった。次いで近隣の日用品スーパーで取り替え、その時にはスペアも求めたのだったが、最近それを自分で付け替えたので、現在のキャップは4代目ということになる。

 こちらも歳を取り、脊椎管狭窄症も経験して、今ではステッキに頼らねばならないことが多くなり、以前のように失念したままということは無くなったが、やはり今でも、時に玄関のドアをロックしてから、「しまったステッキを忘れた」というケースはまだなくならない。

 それでも、ここまできたらもう死ぬまで大事に付き合って貰いたいものである。