老人仲間にも入れてもらえない

 最近は少子高齢化の時代となり、家の近くでも昼間に通りを歩いているのは老人ばかりとい言っても良いぐらいである。

 車椅子の人がいるか思えば、シルバーカーを押して行く人もいる。その後を行くのは杖をついた老人、次は若いといっても、もう中年過ぎの娘に支えれれるようにして歩む老婆であり、少し行けば、街角の椅子に座って一服している老人もいる。

 もちろん、中には買い物袋を下げた老人や、散歩かハイキングか知らないが、リュックを背負って歩いている元気な老人たちも通る。場所や時刻のよっても異なるが、これが近頃のラッシュアワーを過ぎた我が家の近くの町の平均的な風景である。

 自分もその仲間の一人で、杖をついて歩いているし、ある時はシルバーカーを押していたこともあった。散歩に疲れて、途中で街角の何処かに座らせて貰ったこともあった。ずっと自分もそれらの老人の仲間だとばかり思っていたが、ある時ちょっと気になって周りの老人たちを観察して見て驚かされた。

 同じ仲間だと思っていた老人が殆ど、まだ私よりもかなり若いことである。さっさと行く老人は当然のこと、ヨボヨボのように見えても、よく見ると私よりも若い。何かの機会に話して見ると、多くの人たちは私とは十歳は違う。戦後生まれでさえ、最高は七十七歳になるのだから、もう立派な老人である。自分の歳を言うと必ずといって良いぐらい「お元気ですね」と感心される。

 そういえば、新聞などの広告でも近頃は老人相手の広告がやたらと多くなった。毎日のように、保険薬や健康食品のようなものの広告で、足腰に良い、睡眠に良い、便秘に良い、何に良い、一度是非試してみて下さい等などといった広告に溢れている。

 しかし、それらの言い分を聞いていると、いずれも老人と言っても、60代、70代ぐらいの年代の人たちを対象にしており、今使用したら老化を防げるとか、遅く出来るとか言った類のものである。何やかやの物で、老いを抑える、隠す、防ぐなどのための広告のようである。

 新聞や雑誌などの広告を見ても、老人物が多いが、老人の整理学だとか、老人入門、七十歳の壁、八十歳の壁、七十歳からの選択、老いに負けない生き方、七十歳が老化の分かれ道、老人取扱説明書、老の品格、老けない食事、老いなき世界、最高の老後、等々。見ると、やはり七十、八十歳代ぐらいの人たちが対象になっており、いかに元気に老年期を過ごせるかと言ったことが問題の中心の様である。

 ひょいと気がついたら、私はそういった老人集団からも、いつの間にかもう外れてしまっているようである。もう九十を超えたような老人には用がないと言わんばかりである。もうその対象を過ぎてしまってまで生きられたのだから喜ぶべきかも知れないが、もう老人仲間からも疎外されてしまったのであろうかという一抹の不安、寂寥を感じないわけに行かない。

 それでも今や、この国では、百歳を超えた人が5万人以上もいる様だから、九十歳も越えればいわゆる老人ではなく、今度はそちらの超老年期の人たちに加えてもらい、それなりの生き方生活の仕方を学ぶべきなのでであろう。