誰でも自分の歳は勝手に変えられないが、世間で生きていくためには、その場その場で、自分に都合の良いように、一つや二つ年を誤魔化したくなることがあるものである。
子供から思春期頃までは、早く大人になりたいという願望から、少しでも大人に近く見せ、一人前に見て貰いたくて、一つ二つ年齢のサバを読んで、自分を主張する傾向がある。小学校四年生だった頃、同じ学校の子で、体の大きかったことも踏まえて、校外では六年生だと言って威張っていた子がいた。
その子の他にも、中学校などでは、同僚よりも自分が早く成長しているのだ、偉いんだと自慢するため、校外では、年齢や学年を誤魔化す子もちょこちょこ見られた。また、少し成長してからも、まだ未成年なのに、成人振って酒やタバコをやりたいために年齢を誤魔化す手口は、昔から広く使われて来ている。
こういった年齢を偽る傾向は、成人した若者にもしばしば見られるもので、若くて何かの役職についた者などでは、部下や世間に軽く見られないように、少し年齢をサバを読んで実年齢より少し上に見せようとする傾向があるが、面白いのは、同一人物が、自分が若くして役職に就いたことを自慢するような時には、実年齢を使うか、あるいは一つでも若く言う傾向にあることであった。
結局、外観からはある程度の想像はついても、歳のわりに若く見られる人も、老けて見られる人もいるので、公式に年齢が示されている時は仕方がないが、そうでなければ、人はその時の状況に応じて、適当に自分に都合の良いように、年齢を誤魔化したがるもののようである。
幸い日本では数えの年齢というものがあって、生まれた年を一歳とするもので、古くはそれが広く用いられて来たこともあり、実年齢と数え年を使い分ければ、一歳は自由に年齢を操作出来る余地があるのである。その時や場所に応じて、適当に二つの年齢を使い分けている人も多い。
年齢を一番誤魔化したいのは女性である。成人を過ぎた女性は少しでも若く美しく見せたいので、化粧に工夫して若造りするのが普通のようで、ことに最近では、なかなか実年齢が想像し難い人が多い。黒柳徹子さんなど、私と五歳ほどしか違わない筈なのに、テレビで見る姿はどう見ても老人には見えない。
今時の女性は皆が化粧しているので、化粧姿の女性の年齢は判らない。そんなこともあってか、女性には平気で五歳も十歳もサバを読む人もいる。昔、佐渡島へ行った時、連れの女性がゆうに三十五〜六歳は超えていた人だったのに、空港での年齢申請に、しれっとして二十八歳と書いていて驚かされたことが忘れられない。
年をとって来て来ると、いつまでも若くありたいという願望から、男も女もなるべく若く見られるように、化粧などで若く見せるだけでなく、少しでも年齢も若く言いたがるものである。しかし、それにも例外はあるし、限度があり、他人は自分の思うようには見てくれないのが普通のようである。
高齢になるにつれて体力の衰えが次第に隠せなくなり、種々の病気の後遺症などが加わることもあり、社会的にも仕事を辞め、徐々に老後の生活に移っていくと、どうしても自分の歳を自覚せざるを得なくなって来て、若く見せることにも限界を感じるようになる。
背中の曲がって来たことや、足腰の衰え、白髪、しみやしわ 運動能力の低下など、嫌でも自覚させられ、次第に老いを受け容れざるを得なくなるとともに、最早、次第に若造りの必要もなくなって来る。男も女もさして変わらない。喜寿や米寿などともなると、最早それなりに比較的に素直に受け入れられているようである。
ところが、さらに年齢が進んで九十歳も超えてくると、今度は自分の歳が自慢の種になって来る。九十歳を超えても元気で生きていることを自慢したくなる。他人から「お元気ですね」と認めて貰いたくなる.。そのためには、今度は歳が多い方が良い。他の老人と歳を競い合うことにもなる。今度は年齢をひとつやふたつ上に誤魔化したくなる。そうかと言ってこの歳になって大法螺も吹けないので、せめて満年齢でなく、数えの年齢で表現するようにしたくなる。
私も九十歳を超えてからは、数え年を使いたくなることがよくある。今年は数えで言えばもう九十五歳である。よくこの歳まで長く生きて来れたものだと思うことがあるが、こうなれば、もう白寿も来いと言うところである。
来年は満九十五歳になるので、白寿までもう四年だが、数えで言えば、来年は九十六歳なので、あと三年ということになる。いつまで生きられるか分からないが、この三年と四年の差は大きい。実際どうなるかは運を天に任せるよりないが、果たしてどうなることやら。