老人の転倒

 昨年の夏、知人宅で飲んでの帰り道、家の最寄りの駅で、階段を踏み外して転倒し、前額部を横の壁で打つという事故以来、階段を降りる時には、必ず手すりを持って、ゆっくり降りるように気を付けている。

 老人で転倒して、それが元で寝たきりになったとか、命をなくしたという話も時に聞くが、自分のことは勿論自慢出来る話ではないし、自分の体の衰えをあからさまにしたくない心理も働いて、いつもは黙っている。

 しかし、同じ老人仲間が転んだ話を聞くと、同病相憐れむような気持ちとともに、自分だけでなく誰にでもあることなのだなと、妙に安心感のようなものが得られる。

 つい先日、以前の私の事故の時に一緒に飲んだ仲間と、また一緒になる機会があったが、その人も最近転倒して前額部に傷跡を残していた。それを知って何だか親しみを感じさせられた。私より若いのに、やはり歳をとると誰しも転びやすくなるものらしい。

 先週末の新聞の書評欄を読んでいると、黒井千次氏の「老いのゆくえ」という本の評を柄谷行人氏がしていたが、この本の中にも転倒する話が幾度も出てくることを紹介しながら、評者も70歳を越えてから、転倒を経験するようになり、老化の兆候だということを認めざるを得なかったと書いていた。

 人は立っていてこそ人間としての権威を保てるものが、転倒を繰り返すことによって、嫌でも自己の尊厳を保てない立場に追いやられて、老いを認めざるを得なくなるのである。自分だけでなく、実際に周囲の老人も結構転倒していることを知ると、少しは自分も慰められる。

 そして、今度は周囲の老人と比べて、相対的に考える。彼らはまだ若いのに転倒しており、自分の方がマシだとか、周囲より自分の方がこれだけ歳をとっているのだから、まあ仕方がないかとか、比較して安心感を得ようとすることになるものらしい。

 通りや駅で歩いていても、最近はどこでも老人が多くなったが、見ていると、どうも老人は必ずと言って良いぐらい老人を見るようである。はっきり意識していなくても、どうもその度、自分と比べて安心感を得ようとしているような気がしてならない。