「杖も凶器に」と言っても、杖で人を殴ったり、振り回したりして凶器として使うことを言うわけではない。
包丁でも、人を刺したりして凶器として使うのでなくとも、魚や肉を捌いている時に、誤って指を傷つけたりすることがあるようなことも起こりうると言う話である。
歳をとって足元がおぼつかなくると、杖は老人の歩行を助け、転倒を防いでくれる有難いものである。昔からある”なぞなぞ”で「初め4本足で、やがて2本足になり、最後には3本足にんるものなーに」というのがあるくらい、老人と杖とは切っても切れない関係にあるものである。
ただ私は”杖”というと年寄りじみたイメージが嫌いだし、まだ比較的若い時に買ったステッキを今も使っているので、以下ではステッキと言わせて貰う。
私が最初にステッキのお世話になったのは、まだ六十歳代にことである。当時はまだ朝から勤めに行っていたが、ある朝、地下道に降りる階段を駆け降りた時、突然ふくらはぎを棒ででも叩かれたような痛みを感じて歩けなくなった。肉離れを起こしたのだった。
仕方がないのでビッコを引きながら職場へ行って仕事をし、帰り道に阪急デパートに寄って、店員さんの勧めで楓の木のステッキを買い、しばらくそれを用いて歩いていた。しかし、
足が良くなると、いつしか忘れられてお蔵入りで放置されていた。
ところが八十歳を超えた頃から、時々歩行時に、何かの拍子に転倒することが起こるようになり、再び、そのステッキの出番となった。以来、もうここ20年以上にもなろうか、同じステッキを愛用していることになる。
ただ老眼鏡でもそうだが、歳をとってから使い出したものは、慣れるまでは、つい置き忘れたりし勝ちになるものである。ただ、老眼鏡と違い、歩くときに使うものだから、置き忘れる範囲が広くなるのが厄介である。
これまでどれだけ置き忘れて取りに行ったことであろう。トイレとか喫茶店などを出る時忘れても、すぐに気がつけば良いが、気がつけばもう遙か彼方だったということが起きやすいのがステッキである。よくあちこちで置き忘れたものだが、一番遠方だったのは、嵐山の化野の念仏寺の前の料理屋で、入り口に立てかけたのが災いして、帰る時にもうすっかり忘れて嵐山の駅近くまで来てしまったのだった。仕方がないので、日を改めて、またわざわざ化野まで取りに行ったこともあった。
それはそうとして、同じステッキ歩行と言っても、まだ今よりも元気だった頃は、ステッキをついて歩いても、まるでステッキでリズムをとるかのように元気よく早足で歩いていたものだった。
ところがまさかと思うようなことも起こるものである。ある所の道の下を暗渠となって横断している溝があり、その暗渠の端が少し早く蓋がなくなって惻溝に繋がるようになっている所があった。
たまたま、右手に持って歩いていたステッキが偶然にもその穴にはまり込み、突然バランスを失って前方へ物の見事に転倒したのであった。幸い、手のひらを道路で強く打って出血しただけで、大したことはなかったが、ステッキを持っていたからこそ起こったとんだ災難であった。
ステッキ歩行に慣れてくると、歩行は随分楽になるし、長年使い慣れてくるともう忘れることもなく、もう体の一部のような気さえするぐらいである。
しかしそうなっても、思わぬことも起こるものである。つい先日は、芦屋の美術館へ行った帰り道、芦屋の市役所の横の道から、敷地内の遊歩道に入ろうとした時、少しの段差にステッキが引っかかったのか、突然転倒してしまった。その時、どうもステッキの持ち手の部分が丁度、口吻を直撃したのか、上の総入れ歯が割れて、口内出血する羽目になった。
ステッキをついていなかったら、手をついたぐらいで済んだのであろうが、ステッキを持っていたばかりに、ステッキと体が絡んで転倒したために起こった事故のようである。
どちらも、もしステッキを持っていなかったら、怪我をすることもなかったのに・・・。身を守ってくれるステッキも間違えれば、返って凶器になることもあるのだということも知っておくと良いであろう。