九十四歳の誕生日

 本日、7月24日で満九十四歳になる。気がついたら、もうこの歳になってしまっていたという感じだが、ここまでよく生きて来たものである。父が九十四歳で亡くなっており、長命だったなあと思ったものだったが、私もいつしかその歳になってしまった。

 仲の良かった友達も、色々な付き合いのあった人達も、あらかたもう先にあの世に逝ってしまって、一人残された寂寥の中で、ちと生き過ぎたかなとの思いもあるが、会う人に「お元気ですね」と言われることが多くなったりすると、後は自然に任せるより仕方なかろうと思うことになる。

 94年の人生と言っても過ぎ去ってみれば、本当に束の間であった。生まれてからこの方、色々なことがあったが、よく言われるように、全てが走馬灯の如くに思い出されては、またたちまち消えていってしまう。

 しかしその中で、私の人生の最大の出来事は何と言っても、あの戦争である。今となっては、太閤の辞世にある「浪速のことは夢のまた夢」と同じような思いであるが、敗戦を境に、その前と後では、私の人生ははっきりと区別されている。今も、大阪の大空襲、一面の焼け野が原、江田島海軍兵学校、7月終わりの呉大空襲、沈められた多くの艦艇、広島の原爆、特攻訓練、敗戦、戦後の混乱、闇市、等等、脳裏に焼き付いたままである。

 1945年の敗戦時、私は17歳で、大日本帝国海軍の将校を養成する海軍兵学校の生徒であった。もともと子供の時は建築家の夢を持っていたが、大日本帝国の忠君愛国の土壌の中で純粋培養された如くに育てられ、他の世界を全く知らなかった少年は、お国のためにはと本気で思って、親に無断で海軍を目指し、戦況不利の進むとともに、最後は天皇陛下のために死ぬしかなかった。そんな私にとっては、敗戦は単なる国の敗北に止まらず、私の全世界の崩壊であり喪失であった。

 神も仏もなくした戦後は、虚無の世界を彷徨するばかりで、長い間、急激な世の変化についてい行けなかった。人々の豹変に無性に腹が立ったものであった。生きることに意義を見出せず死も間近にあり、そこから抜け出せた後も、厄年の42歳まででも生きられれば十分だと思っていたものであった。

 こう言う状態から抜け出すには、長い時間と広範な世の変化が必要であった。医師になろうとした契機も、閉ざされた世界の中での精神的なことについての関心からであった。

 それからの長い間、医師として大学や病院での診療や研究、行政、病院の管理、産業医など色々なことに携わってきたが、その委細についてはここでは省略する。今ではいずれも遠い夢の中のことになってしまった。

 そして最後は、2015年、87歳で、心筋梗塞になって、毎日の仕事を辞め、2019年末には、脊椎菅狭窄で歩行不如意となったのに続いて、コロナの流行が始まり、それを契機に、年齢も考えて、仕事をすっかり辞めて今日に至ったと言うわけである。

 あと何年生きられるか分からないが、全ては自然に任せている。自然の声がかかったらひっそりと無になろうと思っている。それでも今はまだ歳並みには元気なので、毎日好きなことをして楽しんでいる。よく出来た女房が万事助けてくれるので、浮世の雑事で悩まされることがないのが何よりである。毎日好きなように振る舞っているが、こっそり感謝もしている。

 その上、老夫婦二人だけで、いささか寂しくなったところに、思いもかけず、娘がひょっこりアメリカから戻って来てくれたので、いささか心強い。また世界中に散らばってしまった娘や孫たちが気を遣ってくれて、日本とアメリカの両海岸、それにイギリスまでを結ぶ、まさに地球規模の Zoomの誕生日祝いをしてくれたのが何よりの幸せであった。

 その上、我が家では女房と娘が誕生日祝いをしてくれたし、更には亡くなった友人のお嬢さんまでがコロナ流行にもかかわらず、Zoomで誕生日を祝ってくれるということもあった。やっぱり長生きはいいものかも・・・。