一緒に空襲に遭った仲間

 先日の朝日新聞の「声欄」に「ハルカスに思う 大阪大空襲」として88歳の女性の方が投稿してられるのが目に止まった。1945年3月13 日深夜の第1次大阪大空襲から76年と書かれ、当時から敗戦後にかけての天王寺駅界隈のことに触れられていた。

 私も、当時、天王寺駅のすぐ北の茶臼山町に住んでおり、同じ時に、一緒に空襲に遭い、空一面から降ってくる焼夷弾を見上げているうちに、忽ち周りが火の海となり、火災の中を天王寺美術館の垣根をよじ登って、庭を抜け、建物の地下へ避難したのであった。

「声欄」の女性は全く存じ上げない方だが、同じ時に、すぐ近くで、同じ災難に遭っていたと知ると、何だか身近な人のような懐かしさを覚えて、ついその記事を切り抜いていた。何はともあれ、無事で、この年まで、平和な世の中を生きて来られたことを共に喜びたいものである。

 この方はどうにか焼けずにすんだ小学校で卒業証書を貰われたが、お父さんが戦死され、母親だけで、戦後にも随分苦労されたことだろうと推察する。私は中学校の卒業式もないまま、4年で卒業させられ、4月から江田島へ行って、最後の海軍兵学校生徒になった。

 ところが、本気で、天皇陛下の御為に、大日本帝国のためには命を賭しても戦うぞと思っていたのが、4ヶ月で敗戦。それまでの世界が全てなくなり、突然変わった世の中について行けず、虚無の中を彷徨した年月を過ごした挙句に、ようやくに戦後を何とか乗り越えて来たようなものであった。

 記事にある「ハルカス」の地にその頃あった百貨店は大鉄百貨店(後の近鉄)で、茶臼山からもよく見え、よく利用した所でしたが、空襲で焼けてしまい、真っ黒に口を開けた虚ろな窓が並んで、どの窓からも斜め上に黒い煤が走る無惨な姿を晒していたのが今も忘れられない。

 敗戦後、百貨店の北側の天王寺駅前広場には、ぎっしりと闇市が立ち並び、復員軍人やヤクザ、第三国人在日朝鮮人などをそう呼んだ)、それに浮浪児や傷痍軍人なども加わって混雑し、長い間、惨めで怪しげな雰囲気を漂わせていた。空襲で亡くなった人達、戦後に飢えて亡くなった人たちも沢山いた。

 苦い思い出である。世はまた次第に戦前に似てきているが、今の若い人達がもう二度とあのような悲惨な目に遭わないよう、戦争には絶対反対しよう。